その白い石の側面をなぞったのは一体何度目だろう。少年の記憶はどうやら危ういものらしい。
それに気付いたのはつい最近のことで、
一体今までにどれほどのものをこの桃色の場所から落として来たのだろう。
それは、大切なことではなかったのだろうか。忘れてしまえばそれも分からない。
「どうして」
声を上げる。

綺麗な海が一望出来るこの場所。私、死んだら此処に眠りたい。
そう笑って、くるりと回った少女の顔を、名前を、少年の中での立ち位置を、少年は知らない。
どうして、こんなにあちこち痛いのか。分からない。
この痛みもいつか失くなってしまうのか、それだけが今は恐ろしい。
「レイ」
それは石に刻まれた名前だった。知らない、名前。
どうして毎日のように、此処へ来ているのだろう。知らない人なのに。
もしかして、と何度思っただろう。けれども誰かの言葉が、少年の淡い願望を砕いていく。
「このお嬢さんも、可哀想にねえ、あれからもう…何十年も経つなんてね。
まだ、昨日のことのようだよ、可愛い子だったのに」
少年の手は小さかった。少年の手は、子供のものだった。
何十年も、なんて。生きていない手をしている。
少年の記憶で舞う顔も名前も分からない少女は、少年といつだか手を繋いだはずだった。
少年よりまだ一回り小さな手を、守ろうと思ったことも。

少年は知っている。彼女は、彼女ではない。
「じゃあ一体、君は誰なんだろうな」
呟く。じっと、少年を見つめる瞳には気付かず。
「どうして、こんなにも君に呼んで欲しいと、思うのかな」

もう思い出せない、自分の名前を。





20150304