ロキソニンは二錠飲んだ 

 錠剤のゴミが転がっていた。中身が入っていない銀色。ちゃんとゴミ箱に入れろよ、と言っても彼女は聞かない。入れたつもりになっているから注意したって意味がない。そんなことは分かっているのに、直らないと分かっているのにどうしようもないな、と思う。この女も、自分も。
 まるで世界が自分のためだけに回っているよう、な。
「みんないたいの」
転がった女は笑ったのだと思う。多分。顔が見えないのでそんなことしか言えない。
「ほんとうはみんないたいの」
 階段を登った先、彼女の部屋へと続く廊下に、冷たい廊下に転がってこっちに背を向けた女。
「くすりをのんでもこのいたみはかんわされないわ」
「…そう」
なら何で飲んだんだ、と言いたくなるけれどもその答えはとうに知ってている。水宮かがみが飲めと言ったから。それが正しいと思っているからそう言ったのだ。かがみの正しさを女は実行して、そして間違いだと突き付けてきた。
「かがみくんがいたいのが、こげちゃんにながれこんできてる」
意味が分からない、分からないと言っていたい。
「それってとっても、うれしいことよ」
 十ヶ月止めてやろうか、なんてクソみたいな台詞すら言えなかった。

***

 

 ぐるぐる、ぐるぐる、風が回っている。始まりの音、終わりを置き去りにして。ぐるぐる、ぐるぐる、花粉症の女がくしゅんとくしゃみをして、その可愛らしさに腹が立って、けれども何も出来ずにいつものように顔をしかめるだけ。進む、進む、進んでいく。オレは進む、貴方は止まる。欠けた歯車、止まってしまったら二度と噛み合わず、交わることなく。貴方のことを思う度に悲しくなる。
 世界は正しい。正しいからこそ回る。始まる、終わったことも分からずに。車の音、車が走っていることを今初めて知った。
 桜が綺麗な季節だった。
 それだけが、心残りだった。

***

ああ、王子様、何処にいるの。 

 ガラスの靴なんて流行らないしそもそも危ないしクッション性がない上ヒールもある靴でど真ん中で踊るなんて正気の沙汰ではない。そんなふうに思うからきっと多分私は一生美しい話が書けない。でも呪いはあるのだと何処かで知っている。いばらも林檎も白鳥も赤い靴も、全部ぜんぶ呪いだ。それは大衆のかもしれないし作者かもしれないし自分自身かもしれなくて。
 本当はキスなんかなくても解けるくせに、絶対に解けないふりをしているだけのくせに。
「呪いを解かなくちゃ」
 すべての言葉が、呼吸(いき)を失う前に。

***

鏡を見てご覧 

 あの女は骸のことが嫌いだったなあ、と思い出す。だからこそ私はあの女に引き取られたのだろうし、そこで生き延びることが出来たのだと思う。弱い女だった、母になど到底なれない女だった。それでも世界は女を母にしたから、仕方なくうまくやる方法を探しただけの話。
 私は骸のことが好きだった。骸の笑顔が好きだった。何か私が言って、骸が笑って、それが嬉しかった。今はもう、見ることすら出来ないけれど。骸が笑う。笑う笑う笑う。あの女はそんな時どうしなさいって言ったんだっけ?
―――骸が笑ったらね、
とても、奇麗。
―――微笑み返してやりなさいな。
 だって、あれはそもそも存在してはいないものなんだから。

***

Schwarzwald 

 夢だ、と思う。地図帳のページが開かれている。社会科の先生はいつも教科書と地図帳とを一度に開かせるから嫌いだ。こっちはノートも開かないといけないのにきっとそんなこと考えていないんだろう。三冊の同じサイズの本を開いておけるほどこの机は広くないのに、見て分からないんだろうか。授業が進んでいく。何を言っているのか分からなくなる。眠い。でも眠ってしまうのは怖い。
―――怖くないよ。
誰かが言った。
 だから歪はそれを信じてみることにしたのだ。



(黒い森)

***

ぼくはひとりで 

 水は鏡のようだから嫌いだった。自分が変わっていくことが否応無しに突き付けられるから。どうしてこうなってしまったんだろう。ずっと変わらない関係を保つことは難しかった、とても難しかった。同じ身体に住んでいるというのに、彼と僕はとても違ったから。
「…来々」
「その名前を呼ばないで」
弱々しく泣く彼を、僕は守らなくてはいけなかったのに。

***

箱庭の外に世界はない 

 雨の日に突然やって来たのは用賀現で、ああきっと逃避先に最上歪を選んだ時点で彼女は終わったも同然だったのだろうな、と思う。冷たい腕が抱き締めて来て歪は抵抗せずに、ただ首を絞められているみたいだ、と思った。首を絞められたことなどなかったけれど。
 歪はそういうものだった。誰よりも死に遠い。全員がきっと一度は死んだことがある世界で、唯一死んだことのないもの。殺す側。きっとこの用賀現も殺さないといけないのだろうな、と思う。面倒だな、とも。人の形をしたものを殺すのには力がいる。疲れてしまう。その疲れは忘れても身体に残る。身体が覚えている。殺す必要がどうしてあるのか毎回考えているけれど、殺さないでうまく行ったためしはないのだ。結局最後には殺すことを求められる。縋るものを失くしてしまったら、やっぱりこの世界は死んでしまうのだろうか。
―――それでも良いや。
そんなことを思うのはこの体温の所為だろうか。
―――だって、
 全部妄想だった、分かっていた。
 用賀現は彼ではない。
―――貴方のいない世界など。

***

恋なんてそんなもんだ 

 いくら馬鹿だと言われてもそれだけは認められなかった。言えよ、と言われる。言った方が楽になれる、と頭では理解している。いっちゃいなよ、かがみくん、それがいいよ、それがただしいよ、舌っ足らずな言葉を耳で必死に拾いながらお前が言うなと思う。
「…いやだ」
「今回長い」
面倒だ、と言うように大袈裟なジェスチャー。
「どうせ同じところに着地するんならさっさと終わらせたいんだけど」
「どうせ忘れるくせに」
「そうかもね」
「なら一緒だ」
「一緒じゃない」
分からないよね、アンタのことも分からないし。
 投げやりなくせにこっちの方がよほど正しいことを言う。それでも唇を噛み締めることしか出来ない。どんなに辛くても例えばこの心が引き裂かれたとしても君を好きになったとことを後悔なんてしない。
 後悔なんて、出来ない。
「ああ、本当に馬鹿だよね」
心なんて背負わなくて良いのに、その言葉が何を指しているのか全然分からなかった。

***

中途半端なりょうしんなんかいらない 

 あ、まただ、と思う。また血の匂いがした。熟れたトマトが潰れるくらい簡単に同じ顔をした殆ど同じ存在が死んだ。まただ、と思う。また、なんてそんなことないはずなのに。
「―――」
掠れた声が骸を呼ぶ。最期の言葉は何だろう、そう思って近付く。ヒュー、と息が抜けて行って、そうして勝った、とだけ呟かれた。
 勝った?
 何に?
 そう思った次の瞬間膨大な量の分岐データが流れ込んで来て理解して一瞬のうちに落ちた。ぶつん、消去しますか、イイエ。小さな身体では頭では処理が出来ないのにいつまで経っても成長出来ないで。
―――誰か、僕を、
それは悲痛な叫びだった。
 ―――鬼にして。

***

魔女の配役 

 彼女が一体どんな顔だったか実のところは憶えていない。そういうものだったから、それが必要だったから。一人では呪いから目覚められないお姫様、そうすべきもの。畠野為史に課せられた運命はその類のものだった。本当に、馬鹿らしい。それでも拒否権などない。出来ないことになっているから、出来ないふりを続けている。
「本当に強い人間なんているのかな?」
首を傾げてみせるとどうかしらね、と彼女は笑った。何の変哲もない笑顔だった。畠野はあまりに無力で、彼女の手を振り払う術を知らない。知らないから、何も出来ないから、自分じゃあどうしようも出来ないから。
 魔法を作るのだ。
 誰かが、畠野のために白馬に乗ってくれるように。



20180429