僕らには何が出来るんだろう。あの子たちがいなくなってしまったら、僕らは何処に行けば良いんだろう。
 もしかして、煌めく希望。棄てることなんて出来ないから。
 どうか、最初から救うために、生まれてきたのでありますように。



プロローグ 

 それは小さな運命のズレ。
 全てを失った少女は抜け殻のように生きて、いつしか消えたいと望むようになる。けれどそう歌う唇は全身全霊で生きたい、幸せになりたいとも叫んでいて。その思いは決別するための涙になったはずが、救世主を生み出した。
 タリーは彼女を良く知る、もう一人の彼女。強くてしなやかな、彼女だけのトモダチ。

 消えゆく運命にある一つの物語。



序話 出逢い 

 鏡を見て呟く。
「僕は、楪真衣(ゆずりはまい)です」
悲しそうな目がこちらを射抜く。また辛いことを隠すのね、動かない唇がそう嘲る。自分のことだから、どういう状態だろうが分かってしまう。でも、それの何処がいけないことなのだろう。消えたい消えたいと叫ぶ反対側、同じくらいに生きたい生きたいと叫ぶ私の鼓動。紛れもない私がそう望んだのなら、私は私を裏切れない。辛いのなら、なかったことにすれば良い。悲しいなら、忘れてしまえば良い。楪真衣は殺してしまって、また楪真衣を生み出す。私にはそれが出来る、世界で私だけしか出来ないこと。楪真衣を生み出せるのは私だけ。今まで何度も挑戦してきて失敗して、それなら一つひとつの行動から変えてしまおう、と。まずは、一人称から。「私」から「僕」へ。隠せない傷痕があるというのなら、皮膚を剥いで新しいものを被れば良い。傷を曝け出すことが出来ないと言うのなら、それをしなければ良い。
 簡単な、ことでしょう?
 なのに、どうして出来ないの?
「…さよなら、楪真衣」
 「こんにちは、楪真衣」
ぼろ、と大粒。か弱い女の子な真衣とはさよなら、もう可愛いね、と褒めてくれる人はいない。誰のためにもならないのなら、そんな子消してしまえば良いでしょう?なのに、どうして涙が出て来るの。止まらないの。
 その涙が床に落ちて、飛び散って。その子は現れた。
「こんにちは、楪真衣」
似ているけれど、違う。髪も目も鼻も、鏡で見た私そのもの。半透明な真珠色をしたその子は、とても楽しそうに笑った。確信する。この子は私から生まれたもう一人の私。また私は失敗した。別の楪真衣になれなくて、分離した。
「…私は楪真衣、十一歳」
「僕はタリタ・アウストラリス。十一歳」
僕。心がざわめく。
「タリーって呼んでよ」
「タリー」
うん、と頷くタリー。
「君はさ、もう一人の僕なんだね」
人好きのする顔で笑う。どこもかしこも私と同じはずなのに、どこか違う。そんな顔、知らない。じくじくと何処かが痛む。忘れていたことが蘇る。
「思い出さなくて良い」
細胞を取り出して違う過程で育てたみたいな形。
「僕は真衣の理想。そうしたいのなら、お手本にすれば良い。君の望むもの、すべて、それが僕」
手を取られる。
 かち合った瞳は、同じように歪だった。
「大丈夫、僕がずっと傍にいる」
タリーの笑みは何処までも知っているものだった。知らないはずなのに、全てに刻み込まれていた。どう足掻いてもこれは私で、私でしかない。
 それが嬉しいなんて、本当、大概だ。



第一話 タリタ・アウストラリス 

 魅力の内に秘めた寂しさ、なんて、良く言ったものだ。
 弾けて落ちた世界。目の前には一人、女の子が泣いていて、僕はこの子の涙から生まれたんだろうと直ぐに分かった。何を思ったのか彼女は自己紹介をしてくれた。楪真衣。それが彼女の名前。何処か引っ掛かりを覚える。違和感ではないけれど、知っている感覚とも言い難い。まぁ、良いだろう。浮かんだ名前を述べる。年齢は知らない、でもきっと同じだ。
 空に輝く星の名前。こんなどろどろとした存在の僕に、そんなものが似合うものだろうか。彼女は知らなかったのか、すんなりと愛称で呼んでくれた。まるで用意されたようだ。三文芝居? でも彼女にとってはこれは不可解極まりない状況のようだ。それにしては、あまりに受け入れるのがはやい気がするけれど。
 もう崖っぷちなのかもしれないな。そう思った。
 口から台詞が用意されたように滑りだしていく。別に彼女といるのは嫌じゃないけれど。
「大丈夫、僕がずっと傍にいる」
そう言ったら、彼女は確かにその顔に笑みを浮かべた。笑みと言うにはそれはあまりに歪んでいて微かで、僕だったから分かったとしか言いようのない代物だったけれど。
 本能で悟る。この子は可哀想で可哀想であまりにも不幸な僕。見ていられない程惨めな僕。でもどうしてだろう、こんなにも庇護欲を唆る。僕だからか、それとも。
 「ずっと、一緒だよ」
それでも、きっと上手くやっていける。もう一人の僕だから、それは関係なく、僕はそう思う。抱き締めたその身体は、あまりに弱々しかった。



第二話 理由 

 僕、タリーことタリタ・アウストラリスが楪真衣から生まれた切欠というのを、身体に刻まれた呪縛の如く僕は知っていた。じわりじわりと侵蝕してくるその痛みを蹴散らす。涙を見せることすら許しがたい環境の中で、心は崩壊間近、そういうことだ。もしかしたら、こうして自我すら持つ僕が生まれたことだし、壊れてしまっているのかもしれない。でも、僕の役目は修復じゃあない。何が役目なのかは知らないけど、それだけは違うと言える。
 僕には記憶がある。何処か崩れゆく空間で、ボロボロになっていく真衣を見ていた記憶が。特に感情は湧かなかった。ただ痛覚は共有しているようで、痛くて痛くてたまらなかった。僕を創り出したのが真衣だと仮定すれば、あれは真衣の心の中だ。立っていることも蹲っていることも出来ない崩落の城で、僕はただひたすらに安全な場所を目指して走っていた。全身を苛む痛みは、暫くすれば切り離す術を覚えた。僕と世界の間に、痛みを溜める場所が出来た。それはあまりに痛々しい僕の鎧。それを纏って走り続けた僕は涙に取り込まれて、そうして外へ出た。此処はあそこよりは安定している。だからと言って、主たるこのか弱い少女との繋がりが切れた訳ではないようだけれど。寧ろ、増したような。
 これからもきっと、真衣の感じるものは僕に流れ込んでくる。推測だが、確信に似たものがあった。崩壊し続けるあの空間で分かるように、真衣はもう飽和状態で、だからこそ僕は吐き出された。それが彼女の望み。ある意味残酷で、ある意味正しい願い。同じように苦しむ僕を見て、一人じゃないと実感すること。自分がまだ、何かに影響を及ぼせる存在であると、認識すること。僕は真衣で、真衣は僕なのに、無駄なことのように感じるけれど。
 僕は真衣の望む全て。自我がある以上、彼女だけの好きになんか、させないけれど。でももし、真衣が僕を本気で疎んだら、また僕は違う僕になるんだろう。同じ存在だから。
 そういうものなんだ。



第三話 痛み 

 学校へ行く真衣に、僕はついていくのを拒んだ。僕は真衣であるが故に真衣にしか触れない存在。だから、真衣の傍にいようと何も出来ない。無駄な期待はさせない方が良いだろうとそれを言って、家に残ることを伝えると、真衣は納得したように鞄を持って出て行った。半分本当で半分嘘。真衣以外に触れないというのは本当、真衣に期待をさせないように、というのが嘘。真衣が期待しようと、それで絶望を感じようと、僕には関係がない。痛みを切り離すことの出来る僕にとっては。同じように苦しむ僕の姿を見せてあげることが出来なくて、本当に申し訳ないとは思うけれど、自我がある以上、痛みを避けて通るのは当たり前の行動だ。僕に被虐欲はない。
 そして、もう一つ。僕は真衣の中での存在でしかない。稀に僕と同じような現象が起こっている人間には見えるのだろうけれど、そういう人間があっちこっちにいてはたまらない。真衣は正直、奇跡を起こしたと言っても過言ではないのだ。崩壊と飽和の中で、何かが起こる前に諦めてしまう人間は少なくないのだから。その点だけは認めている。
 まぁ、何と言っても、僕らは一つなのだ。何処にいたって、関係などない。

 三時間。真衣が学校へ行くと家を出てから経った時間。時計の針は十時を差していた。
 ずきり。こちらの包囲網を食い破って侵入してきそうなそれに、ああ、始まった、と思った。切り落とす。ぎりぎりと圧迫してくるそれを、掴んで鎧に編みこんでしまう。内臓を掴もうとするそれをへし折る。腹を切り裂こうとするそれを蹴り上げる。まだ彼らは攻撃の機会を伺っている。
「…うわ」
ぐらり、と視界が歪んで膝をつく。直接脳内に響こうとするそれを押し返す。目が霞む。ああ、馬鹿な真衣。君は加虐心を唆り過ぎる。どれだけ乱暴に扱っても壊れない玩具の末路は、大切にされずに、いつ壊れるかの耐久レースに使われることを知っているだろうに。
 一瞬、消えると思った。全ての意識を手放したいと願う程の絶望が僕を飲み込む。これを真っ向から受けるなんて、ほんと、馬鹿な真衣。
 叫びも何もあげなかった。侵入されようとも、その痛みも冷たさも、慣れきったもの。肩でしなければいけない程の息を噛み殺し、立ち上がる。
「…馬鹿な真衣」
僕と真衣は深い深いところで、それこそ心と呼ばれるような深淵で繋がっている。だから、真衣が奥に奥に感情を押し込めれば押し込める程、仕舞えなくなる程、それは僕にも流れてくる。痛みを分け与えられることに文句は言わない。言ったところで真衣にどうすることも出来ないのを、僕は分かっている。わざとじゃあないのも分かっている。馬鹿な真衣のことだから、僕のことを知ればもっと押し込めようとして、自爆するのが目に見えている。それは僕にも悪影響だ。だから、言わない。
「傷付くことしか出来ない、馬鹿な真衣」
でも、どうするか決めるのは、どう足掻いても真衣だから。
 だから、僕は口を噤む。



第四話 涙 

 夕暮れ時、やっと帰って来た真衣は、歩くのが精一杯、という風だった。
「真衣」
言葉も発さず、虚ろな瞳だけがこちらを見やる。
「おかえり」
その声は、拒絶された。
 鍵を閉めてベッドに倒れ込む。シーツの波に顔を押し付けて、声もあげずに泣く真衣。彼女は泣いているという自覚さえないのだろう。きっと、ただコントロール出来なくなった感情を、追い掛けるのをやめただけ。少しの間機能停止して、その間に要らないものを出してしまおうという算段らしい。
 出来ないくせに、そう思ったけれど言葉には出さない。否、出せない。真衣は今、僕を拒絶しているから。ずたずたになった心で全てを吐き出す為には、自分自身である僕さえも邪魔だと思ったらしい。真衣の本当に奥深くでの無意識な行動だから、本能のようなものなんだろうけれど。
 真衣。
 はく、と空気だけが口から出て行く。抱き締めたい、と思うのは何も可笑しくないことだった。声を閉ざされたということは、きっと接触も切られているんだろう。それでいて心だけはまだ繋がっているなんて、本当に真衣は中途半端に甘い人間だ。
 ああ、泣きたい。
 これが僕の感情なのか、それとも真衣の感情なのか、どっちでも良かった。どっちでも同じことだから。
 泣いて泣いて、全て流してしまいたい。
 本当に、馬鹿だね。
 一人じゃないと伝えることも、僕がいるとも言えない僕は、ただそこに立っているだけだった。同じ形をした目が腫れる程涙を流しているのを、ひどく乾いた目で見つめていた。



第五話 叫び 

 助けてよ! もう嫌だ! 限界だ!! 叫びが全身を駆け巡る。嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 生きていたくなんかない!! 身体の内から突き刺してくる負の感情に、僕はやっぱり平然とした顔をしていた。真衣の心があげる悲鳴。これを言葉に出しても救われないのだから、本当に楪真衣という人間は可哀想だ。
 もぞり、とベッドの上の丸まりが動く。近くの勉強机の上を怠惰に探ったかと思うと、手にしたのはカッターナイフ。
 そう来るか、というのが正直な感想だった。生まれてから今まで見てきたけれど、そういう系統はまだなかったから。生まれたあと、直ぐにそうなるだろうな、と思ってはいたけれど、まさか次の日に起こるとは。
 右手で握ったカッターナイフを、確かめるように左手首に沿わす。真衣が感じているであろう感触が、僕にも振りかかる。ぞわぞわと、左手首をなぞられる感覚。暫くそれが続いて、思い定まったかのように、刃に力が込められた。
 皮膚の切り裂ける音がしたような気がした。
「…ッ」
落ち着いていた涙が、真衣の頬をまたぽろぽろと落ちていく。どくどく、と痛みが左手首から駆け上がってくる。僕の身体からは血が出ないから、真衣には痛みが共有されていることが分からないと思うけれど。このまま馬鹿な真衣には、このことが知られなければ良いと思う。
「真衣」
あ、声が出た。
 でも、真衣が拒絶しなくなったからと言って、絶対にその声が届く訳でもない。
「こんなこと、したいんじゃないのに…」
左手首から実際に流れる血を見つめて、真衣は呟く。
「違う、のに」
真衣はそっと血の流れる左手首を抱き締めた。服が赤く滲む。涙も血も白いシーツに吸い込まれて、ぐちゃぐちゃに混ざっていった。



第六話 同じ 

「タリー」
あの衝動的とも言えるリストカットから数日。僕は真衣に呼ばれた。同じ存在だという事実が根底にある以上、真衣は僕に苦手意識を抱いていた。だから、正直話しかけられたことは意外だった。
「タリーって家から出れるの?」
「うん、まぁ」
僕が学校についていかなかったのは言ってしまえば面倒だったからだ。真衣が望めば大抵のことは僕の行動に影響するから、僕が家に残れたのは、真衣がそう望んだから、というのもある。楪真衣という人間は弱々しいくせにそれに見合わない高いプライドを持っている。どうせ同じであろうと別離した僕に、自分の虐げられている姿を見られたくなかったとか、そんなところだろう。
 その真衣が家から出られるかと聞いてきた。つまり、それはそういうことなのだろう。
「…そうなんだ」
言って良いのか、と思案する顔が不器用に歪む。この表情を見ていると、何だってしてあげたくなってくる。ああ、僕も大概だ。
「ね、買い物…付き合ってくれない?」
僕はにっこりと微笑む。真衣には出来ない、完璧な笑顔を顔に貼り付ける。
「うん、良いよ」
真衣の望むことに、僕は反対しない。僕は、真衣なんだから。

 「次はー…本屋、かな」
欲しいものをまとめたリストを見ながら真衣が呟く。きっと斜め後ろを歩く僕に向けての言葉だろう。
「本屋、ね」
短く答えておく。それだけで真衣の表情を目を見張る程変わる。僕にしか分からない違いかもしれないけれど。上手く笑うことを忘れた真衣の浮き上がる瞳が、きらきらと雄弁に語るものだから、僕は笑ってしまう。どれだけ真衣は寂しい人間なのだろう。そんなの、僕が一番良く知っているのだけれど。
 僕らは本屋に入っていって、そして、信じられないものを目にした。
「…え」
入り口で立ち止まった真衣に知らない人が肩をぶつけていく。すみません、と小さく謝って足を動かした真衣の視線は、一人の人間とその横の人に注がれていた。
 僕と同じ、半透明の人。
「…同じ人だね」
いるもんだ、と思った。酷い奇跡を起こすような可哀想な人間がこんなに近くに。
「水城(みずき)…修(おさむ)…」
真衣が口の中で転がした言葉こそが、その人間の名前なのだろう。
 水城修。真衣と同じ、不幸に魅入られた恵まれない人間。



第七話 不幸な奇跡 

 これがただの偶然でなくて運命だなんて言うのなら、僕は存在する神様たちを片っ端から引っ叩いて行こうと思う。傷塗れの人間は慣れ合うことをしない。皆で集まって傷口を舐め合おうと、何が変わる訳でもないことを知っているからだ。自分の痛みには自分にしか分からない。下手すれば傷口から雑菌を入れられて、もっと悶え苦しむ羽目になる。その気持ち、分かるよ。そんな言葉を投下させたいのかと思うくらいの偶然。最悪だ。そんなもの飾りにすらならないんだから。それを分かっているはずなのに、もし運命だなんて言うなら、僕は。
 泣きたい。

 真衣は学校から帰って来て、ぽつりぽつりと話してくれた。あの買い物の日以来、僕らの間には会話が出来た。
「今日ね、ずっと水城のこと見てた」
その切り出しに、まるで恋みたいだ、と思う。思うだけ。言わない。真衣は恋なんか分からないだろうから。愛おし慈しむような感情も、激しく求められる激情も、真衣は知らない。受け取ったことのないものは経験として、本で知っているだけじゃあ成り立たない。
「同じ人がいるってことは…水城もこんなってことでしょう? でも、私、信じられない。水城は頼れて、明るくて、優しくて、格好良くて、きれいで…私なんかとは違う。みんなに愛される人がいるって言うんなら、水城はその一人だよ。なのに、なんで…」
真衣のことだ。視界の端で誰かが睨み付けて来ているのも構わずに、水城を観察していたんだろう。一つのことに集中すると他のことが見えなくなる。そんな自分の世界を持っている真衣だから、今まで本当の意味で壊れずに来れたのだ。自分専用の避難場所を、自分で作ることが出来たから。…まぁ、それも危うくなったから僕が出来たんだろうけれど。
「分かんない。分かんないよ…」
真衣が頭を抱える。
「水城、きれいに笑うの。私、あんな笑顔出来ない。影一つない、歪じゃない、きれいな、」
どこからみても幸せそう。そういう人間もいるんだな、と少し感動する。同じ人を作る程壊れかけている人間がそんな風に見えるなんて、ああ、彼はどれだけの力で表面を保っているのだろう。ぞくぞくする。
 水城修の存在は、真衣の中の何かを確実に変えたようだった。それがどんな結果になるのか、僕は興味すら抱けなかったけれど。



第八話 夜の散歩 

 いつも決まって、夜は散歩に出る。それは真衣の日課で、いつの間にか僕も一緒に歩くようになっていた。基本的に真衣は家に一人で、保護者という生き物がいたところで何も変わらないことを、同じ存在である僕は良く分かっている。
 少し風が冷たい。秋がもう半分まで過ぎていて、冬が少し顔を覗かせ始めていた。
「寒いね」
「そうだね」
相変わらず僕の返答は短い。それでも真衣は言葉が返って来ることに目をきらめかせるのだから、やっていられない。全く、真衣は何処まで可哀想に堕ちるつもりなのだろう。
「ん」
真衣が手を伸ばしてくる。その意図を正確に読み取って、僕はその手を取ってやる。
「…ちゃんと触れているのに、感覚がないって、変な感じ」
鼻の頭を赤くして真衣は笑う。やっぱりぐちゃっとした表情。ああ、本当に可哀想。救えない。指を少し動かして、恋人繋ぎにしてやる。真衣は笑う。上達しない。これだけちゃんと触っているのに、真衣の方にも僕の方にも、一切の感覚がない。僕はそういう存在だから、真衣はそれを聞くと光を消す。だから言わない。
「抱き締めてあげようか?」
言葉が返って来る前にその身体を引き寄せる。貧相な身体。
「…ちゃんと触れているのにね」
肩口で真衣が息を吐く。
「これは、タリーは、私の幻想?」
「違うよ」
それは胸を張って言える。
「違うよ、幻想なんかじゃない。だからと言って現実でもないけれど」
僕は存在している、それは正しい世界だ。真衣だけの僕だけれど、そうではない。それなら、自我を持つ理由もなかっただろう。
「本当に?」
「本当だよ」
「信じて良い?」
「信じて良いよ」
薄い唇に接吻けを落とす。
「…やっぱり、何も感じないよ」
何も感じないのが正しいのだと、僕は知っていた。こんなにどろどろな僕はきっと、鉄の味くらいしかしないだろうから。
 真衣が二回目を落とす。
「タリー」
三回、四回。真衣が壊れないでいられるなら、何度でもやってあげるよ。



第九話 公園 

 そのまま僕らは夜の散歩を続けて、公園に辿り着いた。キィキィと揺れるブランコ。人影。
「…え」
真衣が立ち止まる。
「水城…」
ブランコの人影が此方に気付いた。
「あれ、お前、楪?」
「あ、えっと、」
上手く言葉が繋げない真衣を僕は見ている。特に僕の出番はないだろう。そんな風に思いながら。
「こんな夜に外歩いてちゃ危ないだろ」
「…水城に言われたくない」
会話、出来るもんだな。一線を一人だけで踏み越えた真衣に、僕は自分のことのように誇らしくなる。
「それもそうだな。…一人か?」
「ひと、り…?」
首を傾げる。僕の方を不安そうに見るから、仕方なく水城の視界に入るように動いてやる。
「何だ、一緒の人がいたの…」
か、は言葉にならなかった。街灯の光でぼんやりしているにしても、僕が真珠色をしていて、向こうの景色が若干透けて見えるのはちゃんと分かる。
「見えるんだ」
それだけで、水城は全てを飲み込んだようだった。
「…ッオミッ!!」
「何さ」
切羽詰まったような声で水城が叫べば、暗がりからもう一人が現れる。真珠色の、水城と同じ姿形のそれ。
「同じ…人が…」
「あれ、ほんとだ」
そっちは僕と同じく落ち着いているようだった。
「オレはオミクロン・アンドロメダ。オミって呼んでよ」
「正義感溢れる完璧主義とは大した名だね。僕はタリタ・アウストラリス。タリーって呼んで」
「君こそ、魅力の内に秘めた寂しさだなんて似合わないね」
「余計なお世話だ」
二人は話について来れないようでわたわたしている。ついて来られても困るが。
「真衣」
優しく声を掛ける。
「帰ろうか」
差し伸べた手は、迷いもなく取られた。
 同じ境遇の人間がいると言うことは、それなりに僕を残酷な気分にさせてくれた。真衣は一人じゃない。そう、証明出来たみたいで。
 ああ、嬉しい。



第十話 繋がり 

 水城が同じ人だと分かってから、二週間が過ぎていた。水城と真衣は徐々に仲良くなっているよだった。城を作り上げる程頑なな真衣は難攻不落かと思いきや、水城の持ち前の明るさに大分絆されているようだった。
 呼び方が、水城から修になったようだ。最近の話題も水城のことばかり。水城も真衣を楪から真衣と呼ぶようになったらしい。いい考えだ。呼び方は距離を縮めるのに一役買う。僕は束の間の幸せだろうと思っていた。水城には悪気はないのだろう。初めて出会った同じ人に、二人共興奮しているのだ。だから近付きたいと思う。願う。それは何ら罪ではない。単純に、普通の願望だ。
 だが、現実はそう上手くいかないのを、僕は分かっている。
 水城にもっと真衣のことを知って欲しい。もっと真衣に、楽しいということがどういうことなのか、知ってほしい。真衣がどれだけ可哀想な人間かを、紛れもなく汚い人間なのだということを、ぐちゃぐちゃになって吐露しても、真衣を受け容れて欲しい。水城には、真衣の領域に入ってきた水城には、死んでも逃げてほしくない。
 だけど、だけどだ。現実はそんなこと、許してくれない。

 水城がいくら真衣に傾倒したとしても、神様はそうじゃない。残酷でしかいられない神様。こんな二人の出逢いを運命だなんて言っちゃう酷い神様。
 僕は貴方が大嫌いだ。



第十一話 古典的 

 朝。学校へ行って下駄箱を開ける。上履きの下に隠された、可愛らしい封筒。差出人も宛名もないそれに、真衣は手をかける。
 水城くんに気安く話かけんなよ
 書きなぐられた文字。雑なそれは、書いた本人の嫉妬を映し出しているようで、ため息が出た。こうなる予想はあった。人気者がある日突然、クラスのいじめられっ子に話しかける。二人はどんどん仲良くなる。気に入らない人間の方が多いだろう。
 嫌な予感はひしひしとする。今まで何もなかったということは、今日全ての準備が整ったということなのだろう。けれど、逃げることは許されない。拒絶されようが何しようが、最後まで逃げることなど許されない。それが楪真衣の宿命だ。
 息を吸う。
 いつも通り教室に入る。この予感が当たるのは確定だ。いつもよりも、視線が痛い。ああ、そういうことか。息を吐く。
 教室に、真衣の机はなかった。
 前から用心はしていた。持ち物は毎回持って帰っていたから、特に被害はないと言って良い。けれど。真衣は通常より多くなる瞬きの回数に気付いていた。気付いていて、無視した。そっと踵を返し、そのまま教室を出て行く。机を探そうか、でも向こうがやったことなんだから、私が探さなくても良いか。ぼんやり考えながら、登校してくる生徒と反対方向へ歩いて行く。下駄箱に戻り靴を履いて、校舎の外へと出て行く。
 校門から出る前に、一度だけふり返る。教室の窓から此方を見下ろす顔が見えた。にやにやと、残虐性を浮かべて、彼女たちは笑っている。同じ顔だ、と思った。あの子たちは幸せなはずなのに、同じ顔で笑っている。歪んだ、歪んだ、どうしようもない顔をしている。思わず笑いが込み上げてくる。なんだ、みんな同じなんだ。気分がすっと軽くなって、もう学校なんていう場所に、未練などなかった。



第十二話 悪魔のいる教室 

 「今日の欠席はいませんね」
出席を取り終わった担任を、もやもやとした気分を抱えていた修は睨みつけた。朝教室に入ってまず探したのは真衣の姿で、いつもは自分より先に来ている彼女はいなかった。更に感じた違和感を辿れば、真衣の机はなくなっていて、怒りで目の前が真っ赤になった修は思わずクラスメイトに詰め寄ってしまった程だ。まぁ、罪もない、とは言えないことが分かっているから、特に彼には悪いことをしたとは思わないが。真衣は机を探しに行っているのだろう、そう思って探しに教室を飛び出そうとすれば、少女たちが二、三人修を囲んだ。
「水城くん、何処行くの?」
「ねぇねぇ、昨日の宿題、分からないところがあって…」
甘ったるい声。いつもと同じ。いつもと同じすぎて、修は戸惑う。こんなに可笑しいのに。怒りから戸惑いに急変換した修の感情が落ち着く前に担任が教室に入ってきた。
「ほらほら、席に着け」
背中を押されてしまえば席に戻るしかない。真衣。心の中で呼ぶ。これが終わったら直ぐに行くから、そう思って座る。担任だって真衣の姿がなければ何か言うだろう。机のないことにも気付くはず。
 その期待は裏切られる。
 「ちょっと待って下さい、先生。真衣がいません」
何が起こっている?最初から楪真衣などいなかったかのように話を続ける担任を、思わず遮る。
「水城くん?」
「楪真衣ですよ」
戸惑ったように装ってはいるが、これは嘘を吐くときの顔だ。修は知っている。汚い、自分の楽しみのためだけの、嘘を吐くときの大人の顔。知っているけれど、信じたくない。
「ええと…何のことを言っているのかな?」
ああ、何てことだ。信じられない、信じたくない。
「やだぁ、水城くん」
その沈黙を破ったのは、一人の少女だった。
「真衣なんて子、最初からいないわよ」
くすり、と笑ったその声が引き金になったように、クラス中にそれは広がっていく。まるで悪魔の囁きのように、黒い波が修に襲いかかる。ぞっとした。これが今まで、共に過ごしてきたクラスメイトなのだろうか?
「誰のこと言ってるの?」
「真衣なんて、知らなーい」
「机もないのに、夢でも見てるの?」
机を何処かにやったのはお前たちだろう!声にならない。
 修は立ち上がった。
「水城くん?」
担任が呼びかけるが、その声には答えずに教室を出る。ギリギリに来た所為で荷物はまだ広げていなかった。良かった、楽だ。止められることもないだろう。
「何処へ行くの?」
さぁ? 心の中でだけ返す。
 貴方たちがいないのなら、地獄もさぞや天国だろうな。



第十三話 歩道橋 

 真衣は歩き続けていた。散歩でもするようにゆっくりと、絶え間なく足は動いていく。行き先は決まっていなかった。何処へ行こうと同じなのは分かっていた。逃げることなんて許されないから、とりあえず気を紛らわしたかっただけ。自分の居場所がもうとっくにないなんて、分かっていた。人気者と仲良くなるなんて代償があまりにも大きすぎる、そういう立場なのも、分かっていた。けれど、痛い。胸が切り裂かれるように痛い。
「希望なんて、とっくに棄てたはずだったのにな」
ぼそり、と口に出した言葉は誰に拾われることもない。いじめられっ子がある日突然自分だけの味方を得て、その味方がクラスの人気者との接点を作ってくれて。何て良く出来た筋道だろう。物語の主人公のような。思わず笑いが漏れる。きっと主人公だったらならば此処まで酷くはならなかっただろう。子供の対立、いじめ、人気者を介しての和解、奔走する担任…きらきらした人生になったりするんだろう。でも、それはない。
 楪真衣は主人公じゃない。
 はぁ、と息を吐く。白く染まって、直ぐに消えた。もう冬だ。紅葉の道を歩きながら真衣は考える。このまま―――もしこのまま、何処までも歩いて行ったらどうなるだろう。居場所が粉々に砕かれた今、のこのこ戻れる程真衣は馬鹿にはなれない。最近はタリーが傍にいてくれたから、修も、オミもいてくれたから、こういった判断力が鈍くなっている。あたたかい感情に名前をつける前に壊れてしまった。もう、思い出せない。ぼやけてしまって、手を伸ばしても届かない。まるで、今までずっと夢を見ていたかのように。
「ゆ、め」
口に出せばそれは現実味を帯びた。
 全ては夢だったのだ。タリーが現れて、ずっと一緒にいるなんて言ってくれた。修とオミと仲良くなって、誰かに受け入れられるなんて信じられた。
 けれど、そんな幸せなこと、あって良いはずがないのだ。だって、私は、楪真衣は嫌われている存在なんだから。要らない存在なんだから。そう、全ては夢。逃げたくてたまらなかった、可哀想な楪真衣の妄想。
 ふと足が止まる。偶然か必然か、そこは歩道橋の真ん中だった。



第十四話 それでも 

 「ぐ、あ」
全身を襲う痛みに、思わず倒れ込む。遠のきそうになる意識を必死に捕まえる。鎧ががらがらと崩れる音と、細胞を直接抉らえるような逃げられない痛み。
「意味、分かんない」
また真衣は何か受けたらしい。それは分かる、それしか分からない。僕に痛みを与えられるのは可哀想な彼女だけなんだから。こんなにも、こんなにも痛いのに、苦しいのに。
 真衣が心配だなんて。
 口角が釣り上がる。意味不明。綺麗な紅葉、水たまり、魚の群れのような雲。ちらちら脳内に流れ込むそれは、きっと真衣が見てるもの。
「学校サボって散歩とは、良い身分だね」
血でも吐きそうだ。内臓なんてものがあるのかも知らないけれど。傍にいたい。手をつく。身体中からぎしぎしと音がする。これは崩壊の音だ、知っている。いつも隣合わせだった音。それが懐かしく感じるなんて、僕も修やオミに毒されている。
「ああ、ほんと、馬鹿だね、真衣」
まもりたい、すくいたい、それは本当に僕の思い?解えを僕は知っている。だからわざわざ自問自答なんてしない。
「だいすきだよ」
掠れた声で呟いて、何とか身体を持ち上げた。家を出る。
 階段、空、眼下の鋼鉄の天使たち。
「歩道橋、か」
待っていて、と思う。今行くから、と地を蹴る。
 奇麗事を言うつもりはない。でも真衣、良く考えて。君は本当に一人なのか。



第十五話 雫 

 感情のこもらない瞳で真衣は地上を見つめていた。目線の先には轟々と音を立てて走る鋼鉄の群れ。どうしたいのだろう。ぼうっとした頭で自分に問いかける。何がしたい訳でもなくただ歩いて、彷徨った果てが此処だっただけだ。特に意味はない。ぎゅう、と柵を握り締める。金属の冷たさが痛いはずなのに、もう感覚もない。
 今なら、飛べそうだ。そんなことさえ思ってしまう。情けない、唇を噛む。こんな風に逃げようとするなんて、一番嫌いな道なのに。他にも選択肢はあったはずだ、そう振り返ってあれ、と思う。選択肢? そんなもの、本当にあったのだろうか。愕然とする。何者かにこの道を選ばされたような、選ばざるを得ないように追い詰められたような、そんな気さえしてしまう。そんなことない、首を振る。馬鹿な考えを頭から追い出す。
 あの流れに飛び込みたい。そんなこと思ってない。全て忘れて無に還りたい。そんなこと願ってない。ぐるぐる。がり、と嫌な音がして唇が噛み切れた。血の味が口腔内に広がる。
 ぼろ、と涙が溢れた。自分のことすら、真面に理解出来ない。
「…つ、ううう」
引き止められているような、後押しされているような。
「タリー…っ」
口から零れ落ちたのは、嗚咽に交じる救世主の名前。
 涙が口の中に紛れ込んで血と混ざり合う。違ったしょっぱさが、生きていることを伝えている。タリー、タリー。もう嫌だよ。
 はやく、たすけにきて。

 「ああ、ほんと、馬鹿な真衣」



第十六話 居場所 

 「待った?」
同じ髪、同じ目、同じ鼻、半透明な真珠色をした楪真衣。
「…タリー」
浮かべられた優しげな笑み。真衣には出来ない笑い方。
「真衣!!」
ばたばたと足音がして、真衣はその表情を驚きに染めた。
「…おさ、む?」
「真衣、良かった…見つかった…」
げほごほ、と息を整える水城に、真衣は怖々言葉を投げる。
「何で…どうして? 私のところ、なんかに」
また始まった、と僕は思う。自分を価値のないもののように言うのは、真衣の癖だ。こんな風になってしまえば、そう思うのも分からなくもないけれど。
「…なんか=Aなんて言うな」
水城が一歩踏み出す。真衣が一歩下がる。
「真衣はそんな言葉で済ませられる程、価値のない人間じゃない」
悲しそうな瞳が真衣を貫く。ずくり、胸の辺りが揺れる。
「や、やだ、タリー、」
僕の後ろに逃げ込んでくる真衣。本当、神様って奴がいるんなら僕は貴方を殴りに行くよ。どうしてこんな馬鹿な子を選んだの。傷だらけで、笑顔を奪われて、そろそろ終わりにしても良いんじゃないかな。
「真衣」
全部殺して呼びかける。
「彼は恥ずかしげもなく奇麗事を言い放った訳だけど」
水城が此処に来るのに、何を棄てて来たのか僕は知らないし、知る必要もない。責任を持つ必要もない。これは、彼の選択なのだから。
「僕の後ろにいるだけで、良いの?」
僕に出来るのは、馬鹿な真衣に選択肢を増やしてやること、だけ。
 安いフィルターが掛かったように目の前が揺らぐ。
「真衣」
水城の声がする。
「真衣が大切なんだ」
きりきりと痛む心臓を抱きしめるような声。
「だから、いなくならないでくれ」
馬鹿で馬鹿で、可哀想な子たち。誰にも守られずに、結局傷の舐め合いをする。
「俺が真衣の居場所になるから」
 すぅ、と涙が頬を伝う感覚。濡れてもいない頬を癖で拭って、そこから少し身体を退ける。真衣と水城が向き合った。
 世界が、また少し歪んだ。



第十七話 可哀想な二人 

 次の日、朝早く楪家のインターホンが鳴った。ぴしり、と石のように固まった真衣の代わりに画面を覗いて、へぇ、と思わず声を漏らした。
「真衣」
動こうとしない真衣の耳元で囁いてやる。
「水城だよ」
不安に塗れた瞳が僕を見つめて来た。その頬を擽るように撫ぜる。感覚はない。それは真衣も同じ。それでもやるのは、ただ僕がそう望むから。それだけ。
「出ないの?」
「…出る」
もぞもぞと居心地悪そうに肩を揺り動かして、真衣は玄関に向かった。僕はその後をするするとるいて行く。本当、残酷だ。
 「おはよう」
玄関の扉の向こう、水城は輝くような笑顔を浮かべていた。
「私、学校、もう行かないよ?」
「俺が行かせると思うの?」
眉尻を下げた水城に、真衣は戸惑うように首を振る。
「真衣に、ちょっとでも楽しいと思って欲しくて。だから、その、一緒に散歩でも行こうかと」
ふぅん、と僕は頷いた。昨日の水城の選択が、少しだけ分かったからだ。水城はきっと、真衣を棄てた教室を棄てることを選択した。それが正しいことなのか、僕は知らない。けれど選んだのは水城なのだから、僕がそうして欲しいと頼んだ訳でもないのに、彼の人生に責任なんて持てない。だからこそ、僕はそれに罪悪感など抱かない。
「だめ?」
こてん、と首を傾げた水城に、真衣は小さく、それでもはっきりと、だめじゃない、と返した。
 仲良く手を繋いで家を出て行く二人を、少し離れて僕はオミと並んで見ていた。
「仲、良いね」
「そうだな」
「オレたちも手、繋ぐ?」
にこ、と笑ったオミには目を細めるだけですませた。水城と同じ顔をしているのに、全然違う顔をする。僕と真衣と同じだ。これは水城の理想でもあるんだろう。
「そんな顔することないじゃん」
狡い声を出すんだな、と思いながらオミが勝手に絡めてくる指を振り払わずにいる。これが、水城の理想。ずくり、と何処かが疼く。
「ねぇ、タリー」
きゅ、と握る手に力を込めて、ちぐはぐに真剣な声が言葉を零した。



第十八話 意味 

 崩壊する心の中、自分の名前、自我、最愛のものへの理解。僕たちの全ては気付いたら、で構成されていた。
「オレたちって、何のために生まれてきたの?」
甘い笑顔にも、真剣な言葉にも、固い声色にも合わない、何処か泣きそうな瞳。ただの気の迷いでこんな馬鹿げた問いかけをしているんじゃないのは一目瞭然。どうして生まれて来たんだろう。何で、此処にいる?それは、僕とて幾度となく思ったこと。どれだけ知っている風に理由を付けても、それは正しい答えじゃない。それが分かってしまう。ハリボテの解答が僕の中で空回りするばかり。
「水城も真衣も、贄なんだってことは分かってるよ」
言葉にすることを、オミは恐ろしいと思わないだろうか。ぼんやりと思う。
「でも、それだからってオレたちを創る必要はあったの? 救うことすら満足に出来ない、霞のような存在なんか、最初からいない方が良いんじゃないの?」
どうして、と繰り返す様は苦しそうだった。僕はどうしてだろうね、と返す。
「ねぇ、何で? タリー。教えてよ…」
不安なんだな、と思った。人間と同じ思考が出来る以上、存在したからにはその意味を求めるのは可笑しいことではない。人間ならば生きる意味、で代用が出来るものだが、僕たちは残念ながら人間とは言い難い。唯一生きる、もしくは存在し続ける意味として誤魔化せそうなもの、彼らに必要とされているから、それはオミにとっても僕にとっても代用品となり得ない。だって、必要とするならもっとちゃんとした力があって然るべきなのだから。こんな何も出来ないような、嘘か真かも分からない存在として在るより、それこそ神様のような存在で。
「意味なんて、ないと思うが」
僕はゆっくりと言葉を紡ぐ。オミが傷付いたような顔をした。満足。わざとそういう言葉を選んだのだから。何で、と喘ぐオミを抱き寄せてやる。真衣にした時と同じだ。感覚はない。耳元でそっと息を吹き込む。
「弱いな、オミ。君はそんなことに縋らないと、彼を支えることすら儘ならないのか」
くすくす。感覚がなくても、オミが硬直したのが分かる。
「真衣と一緒だ。本当、馬鹿だね、オミ」
どん、と突き放す。僕らは不確定なものを深追い出来るほど、安定していない。廻る廻る世界、順番にしか訪れない幸福。なら、不幸は?
 「そんなものくらい、自分で見付けてみろよ」
僕の瞳がどんな色をしているかなんて、僕が一番良く知っていた。



第十九話 母 

 がちゃり、と玄関の扉の開く音がした。その音を聞いた真衣は顔を引き攣らせて縮こまる。僕はそんな真衣を見ながら、やっぱり来たか、と思っただけだった。学校に行かなくなった今、近いうちに遭遇するだろうとは思っていた。
「…真衣」
嫌だ、来ないで。そう言葉にすることすら、出来ない真衣。がくがくと震える肩は強く押したくなるし、恐怖に染まる瞳には自分を映したくなる。まるでお手本。
 此処で縮こまっていようとも、助かる訳ではないことを真衣は良く分かっているはずなのに、それでも何とか自分を庇おうとする。鎖にでも繋がれているようだ。さっさと逃げてしまえば良いだけなのに、馬鹿な真衣はそれをしない。風切羽を抜かれている訳でもないのに。何が彼女を引き止めるのか、同じである僕には何となくは分かっているけれど、理解は出来ない。そんなの、偽善を飛び越した犠牲だ。こればかりは恐らく真衣の本質で、僕らの憎き神様とやらの所為ではないんだろう。吐き気がする。
 きぃ、とひどく静かな音で、今まで真衣しか開けることのなかった部屋の扉が開いた。
 「ただいまぁ、真衣」
ふぅ、と吐き出される紫煙。
「そんなところで何してるの?」
汚いものを見るような眼が、此方を貫いていた。



第二十話 罪 

 「お、かえりなさ、い…おか、あ」
真衣がその言葉を言い切る前に、その身体に強い衝撃が加わる。あまりに突然のことで、痛みに慣れているはずの僕でさえ思わず声を上げた。慌てて真衣の方を見たけれど、彼女は彼女の痛みに必死で、僕のことには気付かなかったらしい。そこで少しだけ安堵する。全然安心出来ない状況だけれど。
「何回言ったら分かるの? そう呼ぶなって私、言ったわよね?」
床に倒れ込む真衣の腹に、女性は足を乗せた。
「アンタにそう呼ばれると汚れるの、私が。忘れてないわよね?アンタの所為で私、男に何回逃げられてると思ってるの?」
「で、も」
「口答えすんの?」
ぐり、と右足に力が込められて真衣が呻く。下腹にひどい圧迫感。息をするのも辛い。
「好きに使って良いって言っても、子供がいるなんて聞いてないって言うのよ。私の餓鬼じゃないっつーの…」
助けて、苦しい、と真衣の四肢が本能に従いばたつく。それを冷たい瞳が見下ろした。
「何でアンタなんか養わないといけないの?」
それからすぐに歪な笑みを無理矢理浮かべ、真衣の前髪を掴む。この人も下手だな、と思った。痛みは依然消えない。
「私を不幸にするアンタは存在自体が罪よね。だからこれはお仕置き。罪だらけのアンタは、床とご対面してるのがお似合いよ」
不自然な程白く綺麗な手が、真衣の細い首を捉えた。暴れ出す真衣に、彼女は泣きそうな笑みを向けているだけ。同じではないけれど、狂っている。
「涎が出てるわよ? だらしないわね、真衣」
飽きた、とでも言いたげに彼女は突然手を離す。またも床に叩き付けられた真衣は、急に確保出来るようになった酸素に咽ていた。女性は咳き込む真衣の衣服に手を掛けて、その服を無言で剥いで行く。明らかに栄養状態が悪いと分かる裸体を晒させて、カシャリ、と彼女は携帯で写真を撮った。
「ロリコンているもんなのね」
何やら操作してから呟く。歪む唇と虚ろな瞳はやたらと対照的で不自然で。
「じゃあね、真衣。良い子にしてるのよ」
ばたん、と何事もなかったかのように扉が閉まった。



第二十一話 記憶 

 これは流石に良くない。僕は真衣に服を着るように促し、ベッドに寝かせて家を出た。本当は真衣を一人にしていくのは褒められたことではないと分かっていた。それでも、何かしなければ、終わりをはやく呼び寄せるだけだろう。
「やあ、水城、オミ」
楪家に向かっている最中だった二人に会う。
「あれタリー?」
「真衣は?」
「ちょっとね」
僕はかいつまんで説明をして二人を早く真衣のところへ向かわせようと思った。

 痛い程の沈黙が流れていた。疲れきった顔で眠る真衣の手の甲を、水城が悲痛な顔で撫ぜていた。
「誰が、こんなこと」
水城の言葉に僕は答えなかった。分かっていた、僕と真衣は同じ存在で同じ痛みを感じ、同じ記憶を共有する。だからこそ、この質問に答えられるのはこの場には僕しかいない。知ってるのか、なんて、質問にさえならない。僕は真衣なのだから。
「それ、僕が答えるとでも思ってんの?」
答えろ、とせっつくような目線に嘲りを送る。真衣の心をズタボロにした原因とも言えるそれを、真衣を守りたいと愚かにも願う僕が、言うとでも?
「答えろよ」
水城の手が僕の襟首を掴む。
「修、」
オミが慌ててそれを止めようとしたのを、僕は視線だけで制した。好きにやらせれば良い。僕だって真衣と同じくらい、痛みには慣れている。
「答えろよ!!」
認めたくないこと、ばかりだ。
 ぎり、と首に襟が食い込む。大した力もない子供のそれでは、僕の表情を歪めることすら出来ない。そういえば水城も同じだったな、オミがいるんだから。ぼんやりとそんなことを考えながら見下ろす。可哀想で可哀想で、やっていられないのは水城も同じ。初めて目を覗き込んだ、真衣と違う、でも同じ色をした瞳が怒りと悲しみを湛えて其処にあった。ああ、歪んでる。
「…なんで、何も言わないんだよ…」
くん、と水城の服の裾が引かれた。そちらに目をやれば未だ目を閉じたままの真衣が、水城の服を控えめに掴んでいた。
「私が話すから」
目を開けないで真衣は言う。見たくない、何も見たくない。流れ込んでくるのは現実逃避か。
「ごめんね、これはタリーの問題じゃなくて、私の問題だから」
 タリーにも、この傷はあげない。
 そう言われた気がした。



第二十二話 悲しみ 

 「あの人は私のお母さん」
へぇ。僕は喉まででかかった感嘆を飲み込んだ。あんな仕打ちを受けたあとでもまだ、あの女を母親などと呼べるのか。図太いにも程があるよ、真衣。薄ら笑いが浮かんでいることは分かっていた、でもそれを隠す理由なんか僕にはない。
「こんな仕打ちをする奴が!?」
水城の言葉にびくり、と真衣は肩を揺らす。
「悪く、言わないで」
それでも水城を見上げた真衣の目はしっかりとしていた。睨んでいるのではない、ただあまりにも何かが詰まりすぎた瞳。それで射抜かれた水城は黙るしか出来ない。
「悪いのは私なの。私が悪い子だから…お母さんは罰を与えているだけ。ただそれだけなの」
あれが教育だと、躾だと真衣は言う。それはあまりにも愚かな思い込みだ。僕はそれを知っていても口を出さない。
「真衣は…」
悪い子なんかじゃない、尚も言い募ろうとした水城に向けられたのは、笑顔。
「違うの。私、すごく悪い子なの」
正しくは、口を出せない。これは、真衣が心の底から思っていることだから。大部分をあの人によって再構築された真衣の価値観は、彼女がヒエラルキーの一番下にいるのだと思わせるようにしている。確かに、そうではあるのだが。食われる者、それが真衣の役目だ。
「あの人に養ってもらってるの、私。なのに、私はあの人の気に入らないことばかりしちゃう。本当はあの人はお金を自分の為だけに使えたはずなのに、私の所為でそれが出来ない。子供がいるなんて聞いてないって、あの人が男の人に逃げられてしまったこともある。私はあの人の子供なんかじゃないのに。…ね? 嫌われて当然でしょ? しょうがないの」
ふわり、それはきっと今までで一番の笑顔だった。僕でも初めて見るような。でもね、と僕は思う。真衣、それが嘘じゃないからこそ、悲しいんだよ。
「子供じゃ、ない…?」
「うん」
呆然とその笑顔に飲まれたように、水城が問う。
「死んじゃったの」
とても愛おしそうに、その傷が抉られるのを僕は感じた。これが、一番最初の真衣の傷。誰にも、そう、僕にでさえ渡さないというように、抉られる傷。
「自動車事故だった。信号無視のトラックにね、私だけ助かっちゃった。四歳の時のこと、かな」
全ての痛みをその小さな胸に仕舞いこんで、そうして僕を作り始めてしまった全ての始まり。じくじくと痛む胸は無視する。こんなのは、慣れている。
「お父さんんもお母さんもね、私を庇ったの。私さえいなければ、二人とも生きていられたのに」
それはあまりにも普通の口調で、何でもないことのようで。
「何で…」
水城もきっと思ったのだろう。そして、何処かで恐ろしいと思っているのだ。だからこそ、彼の願う姿のオミが、あんなにも怯えた顔をしている。
 首を傾げる真衣に、水城は震える声で問う。
「何で…そんなに淡々と話せるんだよ…ッ」
どうしてそんな声を出すのか、と言ったように真衣が首を傾げる。
「何で、そんな…ッ何でもないこと、みたいに…ッ」
まだ真衣は不思議そうな顔をしていた。純粋な疑問。ハテナの形は純粋に首を傾げる僕らを表している、だなんてそれは誰の言葉だったか。
「だって、悲しんでもお父さんもお母さんもかえって来ないんだよ?」



第二十三話 はかなき強さ 

 「ありがとう、水城」
僕の言葉に修はとても驚いたようだった。
「手当て。してくれたでしょ」
僕じゃああの子に触れないから、と続けると、水城はその目をまた細ませた。
「あれがあの子だよ」
痛くも痒くもないその睨みを見下しながら僕は言う。
「それが耐えられないならもう金輪際あの子と関わらないことをおすすめするよ」
その方が幸せだ。あわない価値観は亀裂しか生まない。まだこれ以上あの子を生まれ変わらせるつもりは、少なくとも僕にはない。
「…なんだよ、それ」
「なんだも何も、そのままの意味さ」
ぎゅう、と水城は自分の胸を押さえる。
「分かんねぇよ、お前も、真衣も」
「修…」
オミが慰めるようにその肩に触れる。同じでも、違う。分かっているのに、こうして見せつけられるとまた、違う。
「こんなに違うって思うのに、可笑しいって思うのに…此処がずっと痛いんだ。きりきりって、ずっと…」
「生憎」
きっと、ちゃんと笑えてた。
「君の世話までするつもりはないんだよ、水城。その問いは、君の愛しいオミにでもすることだね」
くるりと背を向ければ、ばたん、と玄関は閉じられた。

 「真衣」
僕が部屋に戻ると真衣は二人が帰ったことを知ったのか、鍵を閉めに玄関へ向かった。そうして戻ってくると、やっぱり其処にいたのはいつもの真衣で。
「大丈夫。心配しないで」
いつものことだから、そう言外に言う。馬鹿で馬鹿で可哀想な真衣。それを人を大丈夫だと言わないのに。誤魔化して、誤魔化して、それがいつまで続くのか。
「大丈夫、大丈夫だよ、タリー。大丈夫だから…」
それが自分に言い聞かせているようにしか聞こえないなんて、そんな単純な判断も、今の真衣には出来てない。
「大丈夫なはずないだろ」
口を飛び出したのは、最大限の侮蔑を込めた言葉だった。真衣の目が見開かれる。いい気味だ、と思った。僕は彼女に絶対に逆らえないように出来ている。でもそれは、彼女の潜在意識の問題だ。真衣の何処か、もっと奥深く、封印されてしまった所で、真衣はずっとこの言葉を望んでいる。
「確かにあの人は真衣の母親だ、だけどそれだけだ」
「それ、だけ?」
「そう、それだけ。家族って言っても、所詮はただの繋がりだ。真衣はそれを大切にすべきものだと思っているみたいだけど、そうじゃない。それを大切にするかどうかは、本人の決めることだよ、絶対にそうしなきゃいけない訳じゃない」
「でも、」
「真衣は、」
遮らせなどしない。
「真衣は、自分が壊れたらそれで良いと思っているの? 本当にそうなったら、あの人が幸せになれるって、本当に、本当にそう信じているの?」
もう、真衣から言葉は返って来なかった。
「ね、真衣」
その強さは馬鹿馬鹿しいとは思わないかい?
「逃げよう?」
確かにとられたその手は、きっと暖かい。
 真衣の強さは、もう葬り去られた。きっとこれで、少しだけ未来が変わる。僕は笑った。あまりに痛くて、笑うしかなかった。



第二十四話 弱いこと 

 「でも、逃げるって、何処に…」
手をとったと言えども、真衣の瞳は何処までも揺れていた。怖くて怖くて仕方ないと、その瞳が必死で訴えていた。それも無理はない。真衣は今までずっと強さを選択してきたのだ。だから、弱いとされる逃げに対して、どう対処したら良いのか分からない。人間は理解の及ばないものに恐怖を示す。それは当たり前だ。真衣だって人間だ。歪んではいても、当たり前に人間なのだ。
「そうだね」
僕は笑う。やっと強さを棄てた真衣は今までの愚かな真衣よりも、とても軽かった。とても軽くて、きっと何処でも行けると思えた。
「何処までも、かな」
 きっと、この弱さこそが強さだ。逃げること、それには膨大な勇気が必要だ。真衣があの正しいはずの場所を棄てたように。けれど、僕はそれを言うことはしない。褒めることはしない。それは真衣が自分で気付くべきことだ。自分は正しかったのだと、僕が何を言おうと真衣は認めない。だから、こうして外堀から埋めてやる。全く、と思う。ひどい手間をかけさせるものだ、僕のお姫様は。
「どこ、までも」
「うん」
信じられない、というように呟く真衣に頷く。
「何処までも」
自分に正直になることすら忘れてしまったお姫様。その茨を解くのは、水城でもオミでも、ましてやこの僕ですらない。
 真衣が。
 真衣自身が全てを気付かないといけない。
 「タリー」
「うん」
ぎゅう、と握られる。感覚はないのに。だから、痛いとか感じないのに。真衣は痛くない程度の強さで手を握ってきている。
「一緒に、来てくれる?」
そんな答え、生まれる前から決まっているのに。
「勿論だよ」
 きっとこれは、彼女の人生最大の選択。



第二十五話 さよなら 

 朝早くに目を覚ました真衣は、前よりはすっきりとした顔をしていた。
「この家ともお別れかぁ」
そう呟く彼女の横顔にはまだ少し、迷いも見て取れた。けれど、悲しみも辛さもあまりなくて、数少ない楽しかった思い出に心を馳せているようだった。どんな場所でも住んでいた場所なのだ。真衣のような人間には余計に、自分のいた所には愛着が湧くのだろう。僕には、分からない話だ。
 ピーンポーンと家中に響き渡った音に、肩を震わせたのは両方だった。こんな時間に、誰だ? 戦闘態勢をとる心は仕方ない。あの人ならば、あまりに早すぎるし、そろそろ神様を刺すくらいしても良さそうだとさえ思った。
「俺だよ、修。…昨日はごめん、開けてくれたら嬉しい」
じりじり、と玄関の様子を伺っていた真衣は、その声で飛び跳ねるように走りだした。そうして玄関を開ける。
「…修?」
真衣の後ろから覗くと、水城は今までにないほどやつれて見えた。
「俺、家出することに決めた」
「え?」
ぱちり、と真衣の瞬きの音がしたような気がした。
 「もう、帰っては来ないと思う。真衣に会えなくなるのは嫌だけど、真衣まで巻き込む訳にはいかないし。俺、もう限界だし、あそこに居場所はないし、」
「ちょ、ちょっとまって修」
真衣の細い腕が水城の肩を掴む。
「話が、話が見えないよ」
「真衣」
俯いて黙ってしまった水城の代わりに、口を開いたのはオミだった。
「元々、修の居場所はとても小さなものだったんだ。けれど、さっき、それを壊してしまった。だからね、もう後戻りが出来なくなったんだ」
不明瞭な説明だったが、それでも伝えたいことは伝わったようだ。
「…だから、真衣。最後に、」
「待って」
さよならを言いに来たんだ。きっとそう言おうとしていたであろう水城を遮り、真衣は彼に抱き付いた。
「私、私ね、家出するの!」
真衣にとって、決心を口にするのにはまた違った勇気が必要だったのだろう。小さく震える肩を撫でてやるのは、僕の役目じゃない。
「タリーと一緒に何処までもって、昨日、決めて、それで…!」
「…うん」
言いたいことが分かったのだろう。水城は張り詰めていた表情をやっと緩めた。
「修も、一緒なら、もっと遠くへも行けそうだなって、思うの」
一緒に、行こ? それはとてもか細い声だった。でも水城にはちゃんと伝わっている。だから大丈夫。
「…うん、行こう。何処までも一緒に」
「うん」
ぎゅう、と水城が真衣を抱き締める温度が、伝わってきたような気がした。




第二十六話 暴君とシンデレラ 

 早朝の町の澄んだ空気が冷たい。二人が手を繋いで歩いて行くのを、僕とオミは後ろからついていくだけ。希望も光もない、けれども満ち足りた二人に、僕らはそれだけで充分だった。これはいつか終わる物語、その終わりに向かって歩み出したことは明白だった。それでも二人が笑っていてくれるなら、それだけで僕らは満たされる。
「…俺のこと、話してなかったよね」
水城が徐ろに口を開いた。
「話して、くれるの?」
「うん」
つきものが落ちたような、軽やかな笑顔をしていた。
「傷、見せてくれるんだ」
真衣も軽く笑う。
「あまり穿り返さないように、気を付けてね」
 そう、それは塩を塗りこむような行為だから。

 水城家は一言で言ってしまえば小さな国家だった。修はその秩序を保つための生贄だ。頭の良い人間程宗教にどっぷりとはまったりすると言う、それを体現したような家族だった。どれだけ良い点数を取っても、成績表でオール5をとっても、王様の言うことはいつも同じだ。
「それが、当たり前だろう?」
それ、だけ。
 この絶対王政が始まったのは、水城の本当の父親が病気に罹った頃からだったらしい。
「治らない病気じゃなかったんだ」
日本にだって優秀な執刀医はいる。水城の本当の父親はそのうちの一人であったし、同僚の腕に絶大な信頼を寄せていた。それは宗教ではなく、彼自身が目を通して見極めた事実。
 けれど。
「一人が、裏切ったんだ」
その人は水城の父親が病気に罹ったと分かると入院を勧めた。それ自体は可笑しくない。だが、そんなに症状が重い訳でも、伝染る訳でもないのに、面会謝絶にした。そして、水城家に取り入り始めた。
 母親はとても弱い人だった。父親がそうやって策略により亡くなると、ずっと傍に寄り添ってくれたその人にころっと恋に落ちた。そうして結婚、その人は水城家の王様となった。
 しかし子供は気付いていた。その王様が善王ではないことを。王様も気付いていた。子供たちが王様に騙されないことを。だからまず、一番上の兄を良い学校へ行った方が良いから、と家から遠ざけた。姉も女子校の方が良いと寮に入れられた。家に残されたのは水城一人、理由は一番抵抗力が弱そうだから、そして。
「良く似ているな、あの男に」
吐き捨てられた唾が顔にかかった。
「でもだからこそ、甚振り甲斐があると言うものだ」
兄も姉も水城を守ろうと戦ってくれた、それでも手紙は破り捨てられ、会いに来た二人にまで暴力をふるわれるのなら、自分だけで良いと、そう思っていた。

 そうして昨日。
「楪真衣って知ってるよな?」
水城を凍らせた、言葉。
「お前の同級生だそうだ。不登校の」
「そ、そうなんですか」
知らなかった、というふうを装うも王様はにやり、と笑った。
「知ってるよなぁ? お前、会いに行ってるんだから」
びくり、と隠しきれぬ動揺が、身体を駆け巡った。




第二十七話 暴く 

 「父親に嘘はいけないよな、修?」
ねっとりとした声は水城に纏わりついて、オミまでも縛っていく。じりじりと心の根を灼いていく恐ろしい言葉の焔。舐めるような視線、息の仕方さえ分からなくなる。お前のことを父親だなんて思ったことはない!! 水城のじっとりとした感情がオミに流れ込んできても、オミに出来ることなどない。ただ、それを涙を流しながら見ているだけ。
 それが、水城の望みだ。何も演じることなく、水城修でいること。
 「まぁ、その話はまた後でしよう。今はお前へのお仕置きが先だな?」
そう言って王様はクローゼットに手を掛け、
「…姉さんッ!?」
転がり出て来たのは、姉。後ろ手に縛り上げられていて、口にはガムテープ。にやにやと笑う王様、怯えた表情の隠せない姉。
「お前もそろそろ、こういうことに興味が出てくる年頃だろう? 母さんは美しい人だが、やはりもう年だからな、物足りなくなって来たんだ。それに比べて光葉は良い。母さんに似て美人だし、若くてそして未使用だ」
そのために女学院に入れたのだから、と続ける王様に、背筋がどんどん凍っていく。
「まぁ、こういうのも良いんだがな、つまらなくなってしまったんだよ。そんな時、ある人から言われたんだ、うちの娘と遊ばないか、と」
光葉の胸を鷲掴みにする王様に、水城の怒りは高まっていく。
「その日のうちに画像が送られて来てね。可愛い子だね、真衣ちゃんというのは」
目の前が、かっと赤くなったような気がした。
「これを調教するのをお前はそこで見ていたら良い。その後二人でその子の家へ行こう」
そうしたらお前にも少し分けてやろう。王様の目はこの先の未来を見通したかのように、真っ直ぐと水城を貫いていた。
「さぁ、修。お前はどうする? お父さんはお前の意見が聞きたい」
「修…ッ」
駄目だ、の意味を込めてオミが名前を呼ぶ。
 それを振り払うかのように水城は首を振りながら俯いていた。




第二十八話 後戻りなど 

 人間が何をしたいかなど、その時の本人にしか分からないことが多い。この場合は例外としてオミがいたけれども、彼には水城を止める手立てなどない。彼が知ったところで何にもならならいのが現実だ。
 駄目だ、修。その言葉すらオミの喉を出て行かない。止めるな、と水城の激情が彼を焼き付けて行く。駄目だ、それは。後戻りが出来なくなる! そう叫ぶのに、はくはくと空気を揺らすことも出来ない呼吸が出て行くだけで。
「俺は…」
言い淀みながらふらふらと王様に近付いて行く水城。その腕を掴めたら。例え役だとしたって、其処まで堕ちることはない。止められるはずなのに、それとも本当に水城がそれを望んでいないとでも言うのか。ぼろぼろと涙を零したままオミは水城の背中を見つめていることしか出来ない。あんなに優しい子が、とオミは首を振る。こんな運命に翻弄されるがままだなんて、誰が許せるだろう。許せない、許せない、許せなどしない。どうして、どうして、その解えは自分で出すしかないとは分かっているけれど。
「俺は、」
止められない。そんな奴の為に汚れることなんかない、そう叫びたいのに。水城は応えない、全てを拒絶して。
 虚ろな獲物は、瞳だけ肉食獣のように光らせていた。

 「ずっと、ずっと疑問だったんだ」
光葉のガムテープを剥がし、手首を縛っていた紐を解き、震えるその指先に気付かないかのように水城は呟く。長いこと計画していたことだった。だからこそオミが生まれたのだ。正しく在れる水城修として、吐き出された存在。
「どうして父さんを殺した奴を父さん≠セなんて呼ばなくちゃいけないのか」
「…修」
光葉の言葉に水城は頷く。
「俺は、見たじゃん」
眠っている父親の点滴、それに何かを注入する王様。見られていたことに気付いて振り返って、にやりと笑って一言。
 ほら、簡単だろう?
 子供の証言なんて誰も信じなかった。信じてくれたのは兄と姉だけ。だから三人で闘って、それでもだめだった結果がこれだ。
「だから余計ってのもあったけど…やっぱ駄目だった、ごめん」
力なく笑う水城はただ今にも崩れそうで怖かった。
「姉さんは兄さんのところへ向かって。俺は行きたいところがあるから」
すぐに追いかけるよ、と言い残して立ち上がる。
 部屋を出る時一度だけ、水城は振り返った。人間だったものと紅い水たまり。ずっと自分が望んでいた結果だと思えば、とても美しく思えた。



第二十九話 不幸を呼んで 

 「兄さんのところ、行くつもりはないんだ。このまま何処かへ…逃げ切れるなんて思ってないけど、何処かへ、行きたくて」
水城は笑った。
「真衣が一緒に来てくれるって言ってくれて、本当に良かった。一人じゃないって、こんなに心強いんだな」
繋がれたままの手は手錠のようだとも思ったけれども、それはきっと真衣から見ても同じ役目を果たしているのだ。
「今でも、怖い。アイツが起き上がってくるんじゃないかって」
震える水城を真衣が抱き締める。
「大丈夫」
抱き締め方も知らないような子供が、愛し方も知らないような可哀想な子供が。
「修は間違ってなんかない。私が、修の味方になるから。大丈夫、だよ」
欲しい言葉も分からなかった真衣が、水城を慰めるなんてこと、出来るはずがないのに。
「…ありがとう」
驚いた顔をしていた水城は確かに、確かに、いつもと同じように笑ったのだ。
 ああ、なんて。
 神様は残酷だ。

 「私の話も、もう一度聞いてくれる?」
真衣も笑っていた。ただこちらはもう、壊れているのが分かる。僕だからか、そうも思うけれど。物語は終盤に差し掛かっている、もうきっと直ぐに終わりが来る。それが、あまりにも、苦しい。
 真衣の両親が亡くなったのは、彼女が四歳の時だ。信号無視のトラックの突撃から真衣を守るようにして、二人とも死んでしまった。これが最初の傷。それから真衣は叔父夫婦に預けられた。この人たちは良い人だったが、叔父さんが病気で死亡、すると生前にその人の良さで引き受けていた連帯保証人やら何やらの類が浮上して来て、奥さんは真衣を遠くに住む自分の妹に預けた。それが今のお母さん。ずっと、分かり合うことなど出来なかった。まだ若いその人は自分のことで手一杯だったし、真衣が邪魔になっていたのも事実だ。血の繋がりもない人間を突然預かれなんて、確かに納得出来る話ではない。それを許せるか、なんて、僕に問うものではないと思うけれど。
 そして五年前、借金取りに耐えかねて叔母さんは自殺した。僕はよく三年も保ったものだと思ったが。そうして真衣は希望を持つのをやめたのだ。
 傷付いてはいけない、そう囁くものがあったから。傷付いたら壊れてしまうよ、壊れてしまったらまだ困るんだ、そう囁く悪魔が、この僕を生んだ。
 「私は不幸を呼ぶ子なの。私がいるからみんな不幸になっちゃうの」
それが普通だと、真衣は言う。
「それが本当なんだから、仕方ないでしょう?」
平気で自分を蔑むのだ。
 そんなこと、馬鹿馬鹿しいと分からないのだろう。



第三十話 逃走 

 最後に見ると思うと、この乱雑な街もかけがえのないものに思えた。
「絶対離さないから」
「…うん」
「お前が例え誰かを不幸にするんだとしても、俺はそれでも良い。それでも真衣と一緒にいたいから」
脆いほど真っ直ぐな言葉だ。愛には程遠いことを僕は知ってしまっているが。それでも、きっと真衣には充分なのだ。
 コンビニに入って棚を眺める。真衣はこういうところも久しぶりだ。
「さて、と。何買うか」
「久しぶりだから、分かんない。修は何が良いと思う?」
「うーん…日持ちしそうな奴が良いかなっては思う。ウイダーとか、冷たくしとけないし。駄目だろうなって」
「ふーん…チョコとか?」
「良いな、チョコ。飴とかも良いかもな」
そう言いながら修がぽいぽいとカゴに商品を放り込んでいくのを、真衣はぼけっと見ていた。
「真衣は?」
「え?」
「真衣は何か欲しいものとかないのか?」
瞬間、強く流れこんできたのは、初めての感情だった。
 しあわせ。
 こんなものを真衣はまだ持っていたのかと、驚く程に幸せな感情。
「…これ」
最初から金箔入りならその日は何をしても幸せ、そう書かれた紫のきらきらした袋。
「これ、好きなの。小さい頃から」
幸せ、しあわせ、流れこんで来る未知の感情に涙が出そうになる。
「みんなで、誰が金箔を当てるか競争してね、いつも私が勝ってた」
みんな、が誰を指し示すのか聞くまでもない。
「じゃ、買うか」
努めて平静に言葉を発したのは水城だった。
「で、俺と競争な」
え、と顔を上げる真衣。でもその驚きも一瞬だった。
「うん! 敗けないからね!」
これが普通なのだと思うことにした。溢れ出る幸せは、僕には毒なくらいに暖かかった。

 『行方不明になっているのは中学一年生の少年少女二人組のようです。少年は父親を殺害しており、その父親の携帯フォルダには彼と同級生の少女の裸の写真が残されていたと言うことです』
『同級生の危機を守ろうとした、ということでしょうかね?』
テレビから流れて来る声。
『詳しいことはまだ分かりませんが…二人は一緒に行動していると言うことで間違いないのでしょうか?』
『目撃証言からすると、そうですね。今はどうなんでしょうか。警察は情報を募集しております』
周りの目が全て自分に向いているような気がする。他愛もないCM。目を逸らす。
「…行こう」
繋がれた手はきっと離れないんだろう。僕もオミも同じことを思っていた。
「俺が、守るから」
「…修」
「今度は、誰も俺の目の前でいなくならせないから」
「じゃあ、私は修のこと守る。私だって、もう、一人は嫌だよ…」
 二人は歩き出す。行く宛などない、希望もない。
 ただ、逃げるためだけに。



第三十一話 手 

 パトカーの音に異様に反応している相手を互いが感じ取っていた。捕まる。その思いだけが渦巻いていた。それは、きっと、怖いことだ。そう思っていた。それはどうだろう、僕は思う。捕まることはそんなに怖いことだろうか、頭を振る。もうこれ以上、引き伸ばせない、それが彼らの出した結論なのだ。
 だから、真衣たちはこんな感情を、幸せだなんて勘違いする。
 「また金箔入ってなかったなー」
「私も」
こうして飴で競争している時間がとても楽しい、それは嘘じゃないから。いつ消えるかすら分からないこれを、こんなにも愛おしいと思えるのだから。
 「修、真衣、タリー」
偵察に行っていたオミが戻って来る。
「もうすぐ、此処にも警察が来ちゃうよ」
「…そっか」
飴の袋を小さく畳んでコンビニの袋にしまうと、水城が立ち上がる。
「修っ」
「行くしかないだろ」
オミの制止を振り切るように水城は首を振る。
「俺も真衣も、もう戻りたくないんだ。何処か別の所へ…行きたいんだ…」
可哀想に。僕は心の中でだけ呟く。賢い水城はもう気付いている、何処にも行けないってことを。戻りたくない、そう願ったところで何処にも行けないし、何処にも居場所などないことを。賢い子供は損をする。本来ならば希望を持って良いような場所で、絶望の味しか分からなくなる。真衣も相当だが、水城も似たようなものだ。それでこそ生贄なのだから仕方ない。
 きゅ、と真衣が水城の手を握った。
「…行こう」
「真衣」
「戻れないなら、行くしかないよ」
真衣の瞳も真っ直ぐで、絶望の色をしていて、馬鹿なりに考えたのだと伺えた。それが、何になる訳でもないけれど。
 これは紛れもない終わりへの道だ。だからこそ、オミは止めようとする。けれど、僕らに止められるものなのだろうか。これはどうあってもこの馬鹿な真衣や可哀想な水城の物語なのだ。それに、一部とは言え無関係な僕らが誘導を施すなど。
 烏滸がましいのではないか。
 ぞっと背中を走った悪寒には気付かなかったふりをする。立ち上がってまた先へと進む二人を追い掛ける。二人一緒にいれば怖くない、そんな感情が聞こえる。
 でもきっと、本当に、何も怖いものなんてなかった。オミと目が合う。少しだけ微笑み掛けられた、疲れたような顔だった。何処へ行くかも分からないのなら、これ以上彷徨いたくない。水城がそう思っているのが、とても良く分かった。オミはそう出来ているのだから仕方ない。
 僕も微笑み返す。そうしてオミの手を握ってやった。
 伝わるはずのない暖かさが、分かったような気がした。それはきっと、真衣から伝わる水城の温度だ。確実に強くなっていくそれが、妙に心地好いだなんて。
 まるで、僕も終焉を望んでいるみたいだった。



第三十二話 最早逃げ場さえも 

 『楪真衣さん、貴方のお母さんは捕まりました。もう大丈夫です、我々が安全な場所を用意します』
スピーカーを通した優しそうな声。警察、だろうか。それとも青少年うんちゃらかんちゃらとか言う何かなのだろうか。まぁ、どちらにしても同じだ。
『水城修くん、君がやってしまったことも、理由が理由だ。ちゃんと考慮される。お姉さんからも話は聞いているから、大丈夫だ』
大丈夫、か。隣でオミがため息を吐いたのをきっと僕だけが感じ取っていた。
『だから、出て来て欲しい。どうか、私たちに話を聞かせて欲しい』
これにきっと嘘はない。水城は未成年でたくさんの理由があって、あんなことになりました。そう結論付けてしまえばきっと、この先も生きていけるのだろう。でも、それでは駄目なのだ。だからこそ僕たちが生まれたのだから。
「…修」
戸惑いながらもオミが声を掛けた。
「ああ言ってるけど」
どうする? とまで聞かないで、水城は首を振った。
「駄目だ」
「どうして…」
それはきっと、流れ込んできた感情に対する疑問符だったのだろう。
「理由がどうであれ、俺がやったのは許されないことなんだ。相手があんな奴でも、許されないことは許されないことなんだ。俺は、言い訳をしたくない」
オミに問われる辺り、水城の中にも葛藤があるのだろう。楽になりたい、ただそれだけを求めているのに、選択肢が幾つか散らばってしまって分からなくなっている。でも、貫きたい、甘く生きたいと望んだオミのようには、なりたくないと、他ならぬ彼自身が願ったのだ。
 ああ、と僕は空を見上げる。白み始めたそれは、なんとなく印象的だと思った。

 奥へ、奥へ。進んでいく二人の背中を追う僕もオミも、その先にいる二人も、一言も発しなかった。終わりだ、終わってしまう。その感覚にオミは焦っているようにも見えた。そして、木々をすり抜け、たどり着いたのは。
「わぁ…」
展望台のような所だった。この山は山自体が一つの公園のようなものだから、そのうちの設備の一つだろう。朝陽が向こうの山の狭間から見えていた。とても、美しいと思った。
 「…ねぇ。修」
真衣が呼びかけるその声は、とても静かなものだった。湖面のようで、まっさらに雪に覆われた銀世界のようで。しかし目だけは熱心にその柵の向こう、眼下に広がる果てしない緑を見つめていた。
「私ね、もう生きるのが嫌になっちゃった」
悲しそうな顔ではなかった。疲れは浮かんでいたけれど、漸く解えに辿り着いてほっとしたような、そんなすっきりとした感じさえ漂わせる笑顔だった。
「…ああ、俺もだ」
修の目の熱心に下界を見つめていた。
 二人はもう限界だ。もっと早く、誰かが気付いてあげたら、助けてあげたら、たらればが止まらないこんな自分が嫌になる。何かが違ったら、少しでも、何かが違ったら。そうしたら、二人ともこんなに傷付かずにすんだのに。
「ごめんね、タリー」
「ごめんな、オミ」
どうしてこんな僕らに謝るんだ。馬鹿で可哀想でたまらない君たちに、僕らは何もしてやれなかった、それなのに。
「私たちがいなくなったら、きっと二人も消えちゃうよね」
ああ、そうやって。いるかいないか分からないものにまで心を砕くから。だからこそ、僕はそんな君が。
「真衣」
「…おさ、む」
オミも、もう何も言えないようだった。いなくならないで、それがどんなに残酷な言葉か、僕もオミも分かっている。
 もうたくさんだ、それはきっと、全員に共通する思いだったのだろう。



第三十三話 金箔 

 「飴、食うか」
「うん」
二人は最後になった二つの飴を取り出す。あまりに出来過ぎた物語のようだ、これをきっと口に入れたら、終わってしまうというのに。
「金箔、入ってなかったなー」
「まだ開けてないのに言うなよ」
「ん、そうだね。でも入ってないこともあるんだよ」
「そっか」
後ろの僕らは、一言も発さない。
「じゃ、一緒に開けるか」
「うん、せーので行こ」
せーの、と声をあわせる二人、ぴりっとビニールの破けた音。あ、と声を合わせて固まった二人に、オミが何だと覗きこんだ。
「金箔…」
オミの声が、とても響き渡って聞こえた。
 二人の手の中にある飴玉は、どちらにも金箔が入っていた。朝陽を受けてきらきらしている、これが真衣の幸せの象徴だったのだと思うと、胸がずくりと疼く。
「今日は何をしても幸せなんだって」
真衣が嬉しそうに話し出す。
「これできっと、本当に何処へでも行けるね」
だってそれが私たちの願いだもん、と真衣は笑った。水城もつられたように笑った。
「進む道は一つ。さっきまでほんとは、ちょっと怖かったんだ。でも、もう大丈夫。だって、ほら、幸せなんだって分かったから」
こんな小さなものに全信頼を預けてしまう真衣は、やはり。
 二人が振り返る。
「ごめんね、タリー」
「オミ、ごめん」
だから、謝らなくても良いと言うのに。柵をよじ登って、その上に座って、手を繋いで。
「さよなら」
空に飛び立つ鳥のように、それは軽やかだった。
 そこから先はあまり良く憶えていない。二人が視界から消えたというのに、僕らは柵に駆け寄ることすら出来ずに、ただ呆然と立っていた。胸の辺りに穴が空いたようで、締め付けられているようで。
 暫くして身体中に壊れそうな程の衝撃が走って、僕らは全てが終わったことを知った。



第三十四話 役割 

 物語は終わった、そう分かっているのに何かまだ違和感が残っていた。何か、何かやり残したことがあるような。消えない身体、歪む視界。でもそれは消失の所為じゃなく、ただ悲しみから。消えると思ったのに。そう思いながら自分の手を見やる。消えて、存在していたことすらなくなると思っていたのに。僕らは消えないまま、滑稽に泣き続けている。
 そして、それは唐突に訪れた。
「オミ」
僕よりも激しく、それこそ呼吸が止まりそうな程に泣いているオミに話しかける。
「いつか、何で僕らが存在するのかって、聞いたよね」
「…? ああ」
「泣いてたっけな」
「泣いてないよ」
クスクスと笑えばぐい、と涙を拭ったオミが反論してくる。
 真衣は死んだ。水城も死んだ。僕らの存在理由はそれで終わったと思っていた。
「見つけられた?」
笑ったままの僕に違和感を感じたのか、オミはじっとこちらを見つめてくる。ぞくぞくと身体の最奥から湧き上がる熱。終わらなかった、それはつまり、
「僕は見つけた。たった今だけどね」
そういうことなんだ。
 ぱちり、腫れた瞼は重そうだ。妙な浮遊感。
「―――ためだったんんだ」
僕は全てが消えて、飛んでいくのを感じる。
「さよなら、オミ」
「待て、タリー!? なんだよ、これ、どういう…!」
「大丈夫、オミならきっと出来るし、僕も絶対に失敗なんかしない」
「タリー、答えろ…ッ」
オミの声がどんどん遠くなっていく。それで良い、きっともう、会うことはない。
「タリタ・アウストラリス!!」
その声を最後に、僕は目を閉じた。

 次の瞬間、其処には何もいなかった。存在すらしていない、何もない空間。少女と少年の見たひどく優しい分身の姿も、彼らが存在していたという証拠も、まるで一陣の風に攫われてしまったかのように残っていなかった。



第三十五話 役替え 

 僕は目を開けた。知らない場所、でも知ってる。僕である真衣の記憶の始まりの場所。初めて見る故郷。
 目の前には子供が一人。突然現れた僕に驚いているようだった。見間違いようがない、この子は、
「―――×××」
身体に、もしくは魂に刻まれた記憶が、唇を動かした。彼女の、本当の名前。楪真衣というのは謂わば役名だ。世界が均衡を保つために生贄にされた、誰でもなり得る悲しい役の名前。舞台を降りた魂はその役を返上しなければならない、きっと、そのための僕らだ。
「誰? どうして私の名前を知っているの?」
「僕は君だよ。君が一番良く知っている」
「なにそれ」
幼い彼女は笑った。見たことのないあどけない表情で、あまりに無防備に彼女は笑った。それがひどく僕には嬉しくて、無性に泣きたくなる。これは僕の見られなかった未来、僕らの棄てられなかった希望。その分岐点だ。
「何て名前なの?」
「タリタ・アウストラリス。タリーって呼んで」
「変な名前。タリーね」
「うん」
子供らしい反応に苦笑いしか出ない。この年齢では外国人のような名前は聞き慣れないのかもしれない。
 もっと知りたかった、もっと話したかった、もっと仲良くなりたかった。僕がタリタ・アウストラリスでなければ、彼女が楪真衣でなかったら。たらればは尽きない。叶うことのない夢は別の形で続いていくことを僕はもう気付いているけれど、それでも僕≠ェ彼女といたかった。喉までせぐりあげて来た我が侭を飲み込んで、僕は彼女に向き合う。
「ねぇ、僕のお願い聞いてくれる?」
「聞いてから決める」
可愛くないやつ。そう思うもどんどん満たされていくのを感じていた。
「これから、買い物行くんだよね?」
「そうだよ」
「じゃあさ、少しの時間で良いんだ。出発を遅らせてくれないかな」
「お家に戻れば良いの?」
「うん」
力強く頷く。この運命さえ変えられたら。
 そうしたら、それで全てが報われる。

 小さな背中が家の中に消えてしばらくすると、一度本当の父親だろうか、男性が玄関から顔を覗かせた。
「誰もいないぞ?」
「えータリーいたよ?」
僕は物陰に隠れる。きっと彼には見えない。此処まで来ても、僕の世界は彼女と同じ人間までにしか広がらない。それでも、良い。それでも僕は僕の世界で確かに息づいていた。
「あれー…いなくなっちゃった。でもね、タリーは信じて良いと思うよ」
「うーん、お前がそんなふうに言うなんて珍しいなぁ…」
玄関の閉まる音がした。ああ、もう、これで大丈夫。
 カリカリ、書き換わる音がする。根本的な解決にはなっていないだろう。でも、これ以上は僕に赦される範囲を超えてしまう。僕は彼女を救えただけで充分だ。その先はまた、この世界が書き換わる時が来るのを待つしかない。
 生きるっていうのは、きっと、そういうことだ。

 「さよなら、×××」




第三十六話 世界の終わり 

 書き換わる音が止んで、彼女もその家族にも未来が拓けた。これで彼女がこの先、あんなふうに傷付くことはない。
 ずっと、それを望んでいた。見ていて苛々する程可哀想な彼女。それは彼女の本質ではない。それを僕は分かっていた、だから余計に真衣≠ェ嫌いだった。世界から下された、あまりに理不尽なこの役割。彼女を彼女たらしめるものすら奪っていく、そんな“真衣”が嫌いだった。憎んでいた、恨んでいた。真衣≠、この世界を、そんなものを作った神様を、そして、その原因になった人間の願いを。それはそのままきっと僕の願いへも繋がるから、いっそのこと心なんてなくなってしまえば良いとさえ思った。
 でも、それでも。僕がこんなに彼女を愛おしく思えたのは、その心のおかげで。消えなくて良い、消えたら嫌だ。なくなってしまえと思ったあとはいつもそう思っていた。

 足は行き先を知っているかのように動いていく。この身体は疲れを知らない。どれくらいだろうか、やっと足が止まったのは、もうとっぷりと日が暮れた後だった。
 この場所も僕は知っている。けれどこれは本当に彼女の記憶、だろうか。首を傾げつつその草原にばふり、と寝転んだ。肺いっぱいに草の香りが充満する。此処が何処であるか、本当はどうでも良かった。ゴミ捨て場とかそういう場所でなくて良かった。思うのはそれくらいだった。だって。
 僕はもう、消えるのだから。
 オミも僕も、あの世界から消えて全てが始まる前に戻ってきた。彼女と彼をこの役から外すために。オミの方はどうなったか知らないけれどきっとうまくやったんだろう。彼だってちゃんと分かったはずだ。それが、僕らの存在意義だって。
 もしも、もしも。この救うチャンスをくれたのが神様だったら。大嫌いだけど、僕は一度、たった一度だけ、彼らに感謝したいと思う。
 彼女を幸せにするチャンスをくれて、ありがとう。

 僕は一人、空を見上げた。




第三十七話 終わり 

 世界が崩れていくのを感じた。いや、崩れているのは世界ではなくて僕なんだろう。彼女を救ったことによって、僕はこの世界に生まれ落ちないことになった。親殺しのパラドックスは機能しなかったようだ。良かった。もしもそんなことになったら、僕らが時空を遡ったことは無駄になってしまうから。
 僕の存在が、消える。
 楽しかった。彼女と会えて、痛みを共有して。振り返れば辛いという感情ばかりだけれど。それでも彼女が笑顔を見せてくれた時、抱き締めてくれた時、僕を満たしたのは確かな楽しさだった。苦しくて、辛くて、痛くて。どうして生きているの、なんて疑問にさえ応えてやれなくて、まるで人間みたいに虚勢をはっていたけれど。
 僕は、幸せだった。
 苦しみよりも悲しみよりも、彼女と一緒に過ごした時間は、寄り添った温度は、とても暖かくて。きっとほんの少しだった。他に踏みにじられて粉々になりそうな程。そうだとしても、僕は彼女と会えて嬉しかった、幸せだった。本当に幸せだった。だからこそ彼女を傷付けるものが嫌いだったし、彼女の痛みを少しでも和らげたくてその痛みをそのままこの身に受けた。意味はなかったかもしれない。僕の自己満足で終わっただけかもしれない。
 けれど、僕が感じている幸せを、嘘にして良い訳はない。

 目の前がぼやけてくる。景色が遠くなっていく。霞む。消えていく。最期に僕の唇が紡いだのは、やっぱり。
「大好きだよ、×××」
叶うなら、今度はちゃんとその名を呼んであげられるように。




エピローグ 

 以上、私が夢の中で出会った不思議な子、タリタ・アウストラリスの話より引用。




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