小気味良い音が、黎明堂の裏庭から上がった。

猫かぶりハニー 

 白狐の黎明堂の敷地は広い。よほど暇でなければこの屋敷のすべてを知ることは出来ないのではないか―――そんなことを言っていたのは、この店唯一の生きた従業員皇涼水である。それを(彼女は視えていないので全く気付いていないのだが)すぐ横で聞いていた榊丸は、確かに、と一人頷いていた。幽霊となって壁抜けなんて技術が身についたから普段は困らないものの、涼水やこの店の店長である榊丸の雇い主であるいずみなんかは、そんなことが出来るはずもないので、道順というものに悩まされているらしかった。
 と、何故そんなことを言ってるかと言うと、この裏庭は少々複雑な道を通ってこないと来られない場所だからである。どうやら元々そういう複雑なつくりであったらしいが、涼水が来てからは良くこうして稽古などに使われていた。屋敷とて広いのだから稽古くらい家の中でも出来るが、涼水が幽霊の見えない体質な以上、必要以上に脅かすのは控えた方が良いだろう、といういずみの―――というか実際はアルトとステファニーの、なのだが、気遣いである。いずみは少しそういうことに疎い。榊丸もひとのことを言えないとは思っていたが、いずみはそれ以上だ。
「なーニ、考え事してんノッ」
振り下ろされた木刀を、いとも簡単に受け止める。
 その先には、この店の店主が微量の殺気と共にあった。
「いや。いずみさん、強くなったなって思って」
「本気出してなイくせニ良く言うヨ〜」
てん、てんと軽い音で下がっていく彼女に榊丸は距離を詰めていく。突き出した木刀の切っ先を、紙一重で躱していく小さな子供。
「本気出すほどじゃないけど、強くなってるのは本当だろ。師匠の賛辞は素直に受け取れよ」
「っテ言われてもネェ…」
不満たらたらです、と言いたげなその表情が読めるようになるまで、三月(みつき)掛かった。仕事柄、そういうものは得意だと思っていたのに、この子供は、また、違う。
 もっと深淵から、やって来たような。
「最初は木刀真面に持てなかったんだから、それ考えれば大した進歩だろ」
「だっテ、こんナ形したノ、持っタことなかったんだモン」
「前から思ってたけど、いずみさんてどっから来たんだよ。えーと、なんだっけ、そうだ、レイピアは知ってたんだっけ」
「知ってたケド、アレって武器じゃないジャン。お飾りジャン」
すぐ折れるし、と続けられた言葉に、それは折れるような使い方をしたからでは、と思わなくもないが言いはしない。確かに戦闘用というよりかは護身や決闘のための武器ではあるから、彼女がするような―――恐らく、袈裟斬りだとかそういうやり方には向かないのだろう。元々細いので折れやすいとも聞く。
「つーか、いずみさんて身体の割りには動作が大振りだよな」
「アー…それは鍛えてくれタ人が派手好きだったカラ?」
そうなの、と呟けばたぶん、と付け足された。
 屋敷の壁際まで追い詰められた小さな身体が、たんっと地面を蹴る。
「トンファーはまあ門外漢だから何も言わねえけど、ナイフはもっと、動きを最低限にしても良いんじゃねえか」
出来なくはないんだろ、と言うと同時に、いずみが榊丸の視界から消えた。後方斜め上から降ってきた軽い身体を見もせずに防ぐ。
「出来るヨ」
「じゃあ何でしない訳? 力の誇示?」
「それもあるケド…煽ルと結構楽になるシ。デモ、なんていうカ…」
そのまま振り抜けば飛んでいく身体、すぐに振り返って追う。
「………何?」
「やっパ内緒」
「えー気になるなあ」
少し、速度を上げた。
 ぐっと息を詰まらせた彼女の身体が、幾度かその剣撃を避けたものの地面に転がって、その首に木刀を添える。
「教えてくれよ、いずみさん」
「…ホント、君、」
瞬間、視界から消える姿。振り返るのは間に合わない。
「どれくらイ強いノ?」
 辛うじて動いた片腕でなんとか弾いた身体を追う。受け身を取っていたらしい服の裾を踏みつけてから、もう一度地面に打ち付けさせて、今度こそ、と首筋に木刀を添えた。
「…いずみさん。いきなり本気だすのは狡くないか」
「奇襲も立派ナ作戦だろウ?」
「そうだけど、うっかり殺しそうになった」
これが真剣だったら危なかった、とため息を吐く。形はどうであれ拾ってくれた恩人を殺すような真似は、したくない。
「相変わらズ嫌味なくらイ良い反応するよネ。奇襲だったノニ大失敗ダ」
「いずみさんが速度に頼りすぎなんだよ。瞬発力はあってもそもそも腕力がないんだから」
あとそこは刃の部分だから握らないように、と踏みつけていた木刀を解放してやる。
「うーン、やっぱリ腕力不足って困るよネェ」
「いずみさんの場合瞬発力で補えてるけどな。別にほら、形にこだわらなければいずみさんの方が強いんだし」
「そウ言われてもネェ…」
「拗ねんなって」
 いずみを起こし、木刀を放り出すとその場に座る。幽霊であるというのは、こういう時本当に便利だ。何処に座ってもそうそう汚れることはない。
「そういえばサ、榊丸。涼水が君のこと話してたケド、」
「ああ、この間イザヨイの薬の時に会ったな」
「君、どんな感じデ対応したノ?」
どんな感じ、と言われて頬を掻く。
「なんて言ってた?」
「榊丸がとってモ丁寧な人デ、武器庫がもウ怖くなくなっタ、って」
「良いことじゃねえか」
「良イことだけどネ?」
 丁寧、なんて言葉。生きていた頃ならまだしも、こうなってしっまってからは縁遠いものになっている。それをいずみも分かっているのだろう。だからこうして首を傾げてみせるのだ。本当に不思議に思っているかは別として。
「まぁ…、猫被っただけだ」
にや、と口角を吊り上げる。
「前に、アルトと話したことがあってな。見えてるって分かった瞬間、それが浮かんできて。つい」
「はァ…」
君ってそんなにお茶目だったっけ、という言葉に、これでも人間してたんだぜ? と返してから、それに、と続けた。
「なんか。あの子には…これ以上、何も知らせたくないような気がする」
 それは、彼女と同じくらいの見た目をした彼にも思うこと、ではあったが。
「…榊丸にモ、そういうのあったんダ」
「いずみさんって俺のことなんだと思ってんの」
「うーン、一口にハ言えないカナ?」
「なにそれ」
さて、とまた構えられる木刀。
「もウ一戦、お願い出来るカナ? 師匠」
「その師匠っての、やめねえ?」
「さっき自分で言っタくせニ?」
「撤回するから」
 同じように構え直す。
「アンタに敬意払っちゃってる俺からしたら、そういうのやっぱこそばゆいわ」
「………敬意っテ」
「払ってるだろ?」
「ナラいっそのこと、涼水に接しタようニ僕にモ接すれバ良いノニ」
「それは…」
思わず笑う。照れ笑い。
「無理な、相談、だ、ッ」
それを隠すように地面を蹴る。
 敬意なんてものを持っているからこそ、すべてを知っていて欲しい、なんて。自然体でいたくなってしまう、なんて。そんなこっ恥ずかしいことを言葉にするのは、既に死んでいても無理だった。
20160525