一番じょうずに甘やかすひと 

 最近仕事をこなすスピードが上がったな。任務後の報告、その時に何処か嬉しそうな顔でそう言ったその人に、No.275はいつも通りの表情でありがとうございます、とだけ返した。それだけじゃない、仕事の仕方も綺麗になった。そう続けられて、しかし返す言葉も分からないのでまた同じ言葉を重ねる。何か、褒賞を与えようと思うのだが。
 流石にその言葉には同じようには返せなかった。
「褒賞、ですか」
ああ、とその男は頷く。
「何か、欲しいものはないか」
ほしいもの、と口の中で繰り返す。食べ物でも、服でも、何でも良い。なんで、も。
 この結社に拾われたことで、食べ物に困ったことはない。なので却下だ。高級なものを、という手がない訳ではなかったが、ああいうものはきっと食べたところで落ち着かないだろう。残念なことに他の社員がそうであるようにNo.275もまた、貧乏性なのである。服も欲しいと思ったことはない。仕事が仕事なためいつ何時敵と相対することになるのか分からないし、この結社の制服はとても闘いやすく出来ている。わざわざ別の服を探す気が起きないほどに。
 そうして暫くうんうんと唸っていたその頭にふっと浮かんできたのは、変わり者の同僚の顔だった。雨の時期にNo.275の前に現れた、結社の人間らしくないその同僚。
「…あの」
「決まったか?」
「休暇が欲しいです。出来れば…No.189と、一緒が良いんですが」
「No.189?」
一瞬、部屋の空気が凍ったような気がした。否、気の所為ではなかったのだろう。その男は笑って見せた。
「仲が良いのか?」
本当にそれは一瞬のことではあったけれど、目の前の人間が笑っているのか笑っていないのか分からない程No.275は鈍くない。何が地雷だったのかは分からないが、此処で返答を間違えれば自分のみならずNo.189の首をも飛ばすことになりかねない。
「…いえ、別に、そういう訳では」
一見やわらかな視線が先を促す。
「ただ、変なやつなので、見ていて飽きないとは、思います」
 暫く続いた重たい空気はふっと霧散した。
「…そうか」
男はその美しい頬に笑みを乗せると、分かった、と呟く。
「No.189との休暇を与えよう。ただお前も奴も優秀な社員であるから、そう長くは取れない」
「分かっております」
なら良い、と視線が書類に落ちて、それが会話終了の合図だった。
 部屋を出て息を吐く。このことを早くNo.189に伝えたかった。駆け出す。
 短い休暇だけれど、きっと、楽しいものになる。殺伐とした世界で奥底にしまわれていた幼い予感がそう言っていた。



No.

***

幸福なくちびるの持ち主 

 その感情が友情と名付けられるものではないことは、人とあまり関わってこなかった彼女にもとっくの昔に分かっていた。そして、その想いが叶うことなどないことも、人間観察が得意でそれなりに賢い彼女には分かりきっていること。
 でも、と。思うことがある。
「だからと言って、この気持ちを捨てなければいけない、なんてことはない」
それはあまりに言い訳じみて聞こえる言葉だった。自分に言い聞かせているような。首を振ってその考えを打ち払い、更に続ける。
「だから、大丈夫」
実際、何が大丈夫なのか全く分からなかった。
 彼女の隣には常にとは言わずともその幼なじみの影がある。べたべたとしている訳ではないけれど、二人の間には確かな絆があるのがはっきりと感じ取れる程。その証拠に、彼らは互いを互いの名前で呼ぶ。カナリアとうたわれる彼女の名前も、クラス長である彼の名前も、呼ぶ者は呼ぶのであるがそれでも、彼らが名前で呼ぶのは互いだけなのだ。
 それが、ひどく、憎らしい。
 彼女は、ヒラリと、そう唇に乗せてはくれない。
 「…羨ましい」
窓の外、雪の中で落ち合ったその二つの影を目に映してから、ぼすりとベッドに倒れ込んだ。



カナリア

***

ひねくれ者のおまえのことなんて、 

 「お前さ、浮いてるよ」
それは忠告でも何でもなかった。何よりもそんなこと、彼女自身が一番良く分かっていただろう。それでも睨むように、苦虫を噛み潰したようにそう吐いたのは、言わされた、という感覚の方が強かったからなのかもしれない。
 斬島アヤメは当時里で最も力のあったとされる忍が連れてきた少女だった。その顔の半分は酷く爛れいて、この先生きるのに支障はないだろうが色の任務は絶対的に取れないだろうと思った。しかしそれを差し引いても少女の忍としての能力は非常に高く、それがまた周囲の反感を買っていた。曰く、美味しいとこ取りだと。色の任務は年頃の少女たちの中で一番に嫌われるものだ。勿論例外はあるものだが、それでも毛嫌いされている比率の方が高い。
 きっと、それには妬みも含まれていたのだろう。同じ年頃の少女たちはこぞって彼女を嘲り(忍を止めても行き場所がないと)、少年たちはその爛れた顔面を気持ち悪いと一蹴した。
 下積みを終えて漸く一小隊を率いることを許されるようになる時期に、ぽっと出て来た相応の実力を有す存在。忍とは実力だ、優秀なものほど上へ行くことが許される。上が埋まれば下は炙れる。この年頃にとっては仲間に置いて行かれるということは重大問題だ。彼女の保護者であり師である男がまた忍としての実力もあり、顔の整っている人だと言うのもそれに拍車を掛けていたような気がする。
 しかしそんな暴風雨のような誹謗中傷の中、彼女はいつでもすました顔で生きていた。彼女を打ち付けるための罵詈雑言も彼女にとっては何にもならないかのように。それは更に周囲を煽り何度か直接的な暴力という形で現れたようだったが、それもすぐになくなってしまった。
 殴っても彼女は一切抵抗をしない。諦観でもしているのか、硝子のように虚ろな瞳でじっとこちらを見ているだけなのだと言う。痛みに声を上げることも、苦しさに顔を歪めることもなく、ただじっと。
 「…波志家の次男坊さまが何の用だ」
そっと返された声は妙に澄んでていて、その酷い有様の顔面からは想像もつかないものでそこで初めて、彼女の声を聞いたことがなかった事実に気付く。
「浮いてるのなんて、仕方ないことじゃないのか」
返答を諦めたのか彼女はそう言う。そう言えば名前、知っていたんだなと思ったが、一応は有名な家の出なのだ。里の外から来た彼女が知っていても可笑しくはない。
「仕方ない、とか」
「じゃあお前はこういうの、どうにか出来るのか?」
嘲りも何もない、ただの問いだった。だからこそ、言葉が詰まる。どうにか。どうにかなんて、
「出来る訳、ない、だろう?」
心を読まれたかのようなそれに、何を言うことも出来なかった。
「…くっそ、」
遠ざかっていく背中に悪態を吐く。
 ああ、大嫌いだ。



あけぼの

***

手を繋いで隣を歩けるだけで 

 その背中は年相応に小さいのに、それに似合わずひどく大きく思えたのを良く覚えている。先を歩くのが好きな彼女は何度もその背中を無防備に晒して、だけれどそれこそがきっと信頼の証だったのだと自惚れるくらいの余裕は残っていた。
 直属の部下として課の中で唯一、その名前を呼ぶことが許されて。自分と同じように彼女を甘やかしたい人間がいるのを、きっと彼女は気付いていなかっただろう。ずっと、何かと戦うように、何かに怯えるように生きていた彼女の、厳しい領域に入れたのは後にも先にもあの場では自分だけだった。
 何が、そんなに良かったのか。
 「…平和、ね」
初めて顔を合わせた日、彼女がそう零したことを忘れることが出来ない。彼女はずっと平和を求めていたのではないかと、今なら思うことが出来る。
 世の中は犯罪があふれていて、だからこそ警察が働くことが出来る。けれどきっと、彼女の求めていた平和はそういう類のものではなかったように思う。しあわせと、そう呼べるものがある世界を求めていたのだろうか。其処までは分からないけれど。
 一度だけ、勇気を振り絞って後ろから隣に並んでみたことがある。名前を呼んで、こちらを見たところへ手を差し伸べて。どうしたことかその時だけはその手を振り払われることなく、小さな手を包んだその感覚までありありと。
 分からない、分からないけれど、それでも確かに自分は幸せだったのだと。そんな些細なことがひどく幸せだったのだと、もう、伝えるべき彼女はいないのだけれど。



吸血鬼

***

お手上げです、きみには敵いません。 

 「…さんじゅう、くど…」
がくがくと震える身体に鞭打って何とか測ったその熱の高さに、今度こそ指の先まで力が抜けていった。三十九度。高熱である。敢えて分の方が言葉にしなかったがもう四十度と大差ないことだけは言っておこう。これ以上考えると更に熱が上がりそうだ。
 やばい、しぬ。一人暮らしもそれなりに長かったし風邪を引いたことも勿論あるのだが、如何せんこんな高熱は久々過ぎて対処法が思いつかないし、何よりも身体が動かない。長いこと籍を置いていた研究所を抜けて引っ越しをした疲れも溜まっていたのかもしれない。今後注意すべきことは浮かんでくるのに、そもそもの熱を下げる方法が思いつかないし頭がぼうっとしてきている。
 ああ、さよなら、満月さん…。愛しいその人の名前を何度も繰り返しながら、明の思考は闇に沈んだ。

 はっと目を覚ました時身体は仰向けになっていて、意識を失う前よりは熱が引いているように感じた。三十八度くらいだろうか。思考は未だに靄が掛かったようではあるが、さっきよりはどん詰まりになることもない。頭には冷えピタが張ってあって、視線を彷徨わせれば横に点滴が見えた。布団をのけてまで見る気力はないが、きっと針が刺さっているのだろうと思う。更に眼球を動かせば横の台には何やら不格好なおにぎりが置いてあって。その見覚えのある形に思わず口元が緩んだ。
「…ありがと、満月さん」
出会った時は守らないといけないと、それしか思えなかったけれど。きっと出会ったことで彼女の中で何かが変わったのか、いつまでも守られる少女ではいられないのだろう。頑張らなくて良い、それでも好きだと思っていたけれど。
「…どうしよ、すごい、うれしい」
 熱くなった目頭は、熱の所為なんかではないのだ。



白狐

***

好きも嫌いも全部ばれてる 

 「僕はこれにする」
そう言って自分の持ってきたケーキの中からブルーベリータルトを取って、Hは満足気な顔をした。顔をした、と言ってもその目の部分は包帯に覆われていて見えないので、僅かに口角が上がったのが確認出来ただけなのだが。
「いずみはモンブランが好きだから、お前はこのあまりを食べろ」
そんな偉そうな口調で差し出されたチョコレートケーキを受け取りつつ、ため息を吐く。確かにケーキの中ではチョコレートが一番好きだが、こうもあまりとして押し付けられると少々腹が立つ。ケーキに罪はないので美味しく頂くが。箱に残ったオレンジケーキと見えるそれは、いずみの夜食にでもなるのだろう。オレンジケーキは苦手なのでそっちを押し付けられなくて良かったとは思う。
「そういえば今日は最初から赤い方なんだな」
「…ヨル」
名前の区別が出来てからと言うものそれで呼べば良いと自己紹介しているにも関わらず、この男は瞳の色で呼び続けるつもりらしい。
「誰かさんがトラウマ植え付けた所為で会いたくないんだって。今日はいずみにアンタが来るって聞いてたから、先に変わっといたの」
「へぇ」
自分で聞いたくせに返って来たのはそんな気のないもので。イラッとした気持ちを胸の奥に飲み込んでいると、いずみが紅茶を淹れて持ってきた。
「はやク食べようヨー」
ケーキを前に目をきらきらさせている彼女を見れば、思わず笑みが浮かんだ。

 お茶の時間は和やかに続き、ちょっとトイレに行ってくるとHが席を立つと、すかさずいずみの視線が手元のケーキに注がれた。
「ねェ、ヨル」
「一口?」
「くれるノ!?」
彼女の甘いもの好きは知っているから笑って一口分ける。ン〜、と幸せそうな顔で咀嚼してから、いずみはお返しにと同じようにモンブランをくれた。こちらもなかなか美味しい。
「ケーキはわリと何でモ好きだケド、やっぱリ僕はチョコが一番好きだナー」
そんなふうに言ういずみにぱちり、と瞬き一つ。
「いずみってモンブランが好きなんじゃないの?」
「モンブランも好きだケド一番好きナノはチョコだヨ?」
きょとん、と首を傾げてから、いずみはははん、という顔をしてみせた。
「Hがそう言ったノ?」
頷く。間違えた、とは考えにくい。歪んではいるが妹を溺愛する兄なのだ、好物を間違えるなんてことはないだろう。
 「それサ、ヨルに一番好きナケーキを食べさせたかっタんじゃないノ?」
 その言葉を理解するのに少し時間を要した。
「…って、ええ!?」
「だっテー、そうじゃなイ?僕がチョコが一番好きダってことはHも知ってるヨ。いつモ買ってきてくれるシ」
「でも、」
「それ二、ヨル、ブルーベリーもオレンジも駄目デショ?だカラ僕にモンブラン寄越したんダと思うヨ?こうやっテ交換出来るようニ」
ネ、とフォークを回してみせるいずみに返す言葉が見つからない。
 だって。もしそうだとしたら。
 「…何の話をしてたんだ?」
いつの間にかトイレから帰って来たらしいHが背後に立っていた。
「フフ、ひっみつ〜」
「仲間外れかよ」
「拗ねないでヨ、女の子同士の秘密なんだカラ」
ふぅんと呟いて元の席に座るHを、当分見れそうにはなかった。



白狐

***

記念日には花束をよろしく 

 「先輩は好きな花ってありますか?」
そんな質問に、ああもう一年経つのか、なんてその日付を思い出す。
「くれるのか?」
その返しに目黒は些か驚いたように息を飲み、覚えていたんですか、とだけ返した。
「忘れていると思ったのか?…と言いたいところだが、残念ながら今思い出した」
「ああ…でもすっかり忘れているものだと思っていました」
花束を渡して今日は何かあったか?とか聞かれるのも覚悟していたんですよ、と笑う。そんなにそういうものに無頓着な印象を与えているのだろうかとも思ったけれど、自分の誕生日をすっかり忘れていたことを思い出して、それも仕方ないかと思った。まぁあの時はひどく忙しくてそれどころではなかったのもあるのだが。
「えっと、はい、そうですね。花束を贈ろうと思って。それなら好きは花の方が良いかと思ったので」
聞いてみたまでです、とそう笑う顔は初めて会った日から何も変わってはいない。
「…そうだな」
考える。花束というものを今までこうして貰ったことはない。イメージとかけ離れているとまでは言わないだろうが。昇進した時も部署でお祝い、というのはあったが、その時に貰ったものもいろいろな花の入った無難なものでしかなかった。
 考える。すると、ふと頭の隅に浮上してきた言葉があった。
「…特別好きだと言う訳ではないが、薔薇の花束なんて、貰えたら嬉しいだろうな」
乙女の夢ですよ!そう力説していたのは今期の新入社員の大崎さんだったと思う。薔薇は色でも花言葉は変わるんですよ、あと状態でも。そういった知識はあまりないものだから、面白いなと聞いていたのがまだ頭に残っていたのだ。
「薔薇、ですか」
「ああ」
「了解しました。綺麗な花束にしてもらいますね」
にっこりと笑った彼に更に付け足す。
「なぁ」
「はい?」
「薔薇は本数で意味が変わるそうだ」
へぇ、それは知りませんでした、と驚いた顔をしてみせる彼にもう一言。
「私は百八本が良いかな」
「ひゃく、はち!?」
思わずと言ったように繰り返す彼に気持ちだけで良いよ、と笑って部屋を出て行く。えっえっと携帯を取り出した彼がその意味を知るのは、きっとすぐのことだろう。



白狐

***

三回目の喧嘩で学んだこと 

 先に謝ってはいけない。先に謝ってはいけない。先に謝ってはいけない。
 そう刻みつけるように三回心の中で呟きながら、ポルックスは屋敷の廊下をどかどかと歩いていた。足音が荒いのはなんてことはない、三日に一回のペースでやっているスピカとの喧嘩がまた今日もあっただけの話だ。
 しかし、どうやらポルックスにとってはそうではないらしい。
「これで四回目だ」
屋敷の主、シリウスの部屋の椅子にどっかりと腰を下ろし、ポルックスは唸るように言う。
「ポーの中ではスピカとの喧嘩はこれで四回目なんだ?」
苦笑するシリウスにポルックスは神妙に一つ頷いた。
「じゃあいつものはなんなんだい?」
「いつものは、喧嘩じゃないだろ。言い合いというかさ、オレは短気だからよ、アイツの暴言に乗っちまうだけで。何というかさ…まぁ、喧嘩じゃないんだよ」
「なんとなく分かるような分からないような」
もう一つ苦笑を見せたシリウスは、で?と問う。
「もう四回目ってことはどうすれば良いか分かっているんだろう?」
出来れば参考までに聞いておきたいな、なんていう言葉にポルックスは俯いて、
「………い」
「ん?」
「だから、先に、謝らない」
石のように重い言葉だった。
「先に謝れば、アイツはどうしてオレが怒っているのかとか、そういうのを全く考えなくなるんだ。だから、喧嘩した時は先に謝らないようにして、る」
そう捻り出すように言うその姿は謝らないでいるのが辛いと体現しているようで。本当にポルックスはスピカのことが好きなのだな、とその頭を撫ぜてやる。
 何処かいつもより破棄のないスピカがこの部屋に乗り込んでくる、三十分前のこと。



宝石

***

雨の日、わざと傘を忘れて行った 

 「雨だねぇ」
「そうですね」
期日目前に迫った書類の山に埋もれながら馬越は苛々と上司の呑気な言葉に返す。
「誰かさんが悠長にナンパなんてしてるから雨が降ってきたんですよ。とっとと仕事終わらせてれば雨が降る前に帰れたんですけどね」
「オレ今日、傘持ってきてないんだよねぇ」
それを聞いた馬越は半眼になった。でもきっと誰かが傘に入れてくれるよね、なんてうきうきと夢見心地で続ける上司に、氷を喉から押し出す。
「近藤さんなら帰りましたよ」
予想通り、武田は冷水を浴びせられたような顔をした。
「沖田隊長と芝居を観に行くそうです。前からの約束だったとか」
「…そ、う」
けれどもそれは一瞬のことで、いつものように馬鹿っぽい高めの声で武田は囀る。
「いや? 別に近藤さんに入れてもらうつもりだった訳でもないし〜ィ?」
ま、雨に濡れて帰っても良いよね、オレ、色男だし。なんてまた馬鹿なことを続ける武田にため息一つ。
「…どーせ、わざとなんでしょう」
元々用意周到な性格をしているこの人が、傘を忘れてくるなんてそうそうあり得ないのだ。賢いけれども馬鹿なこの人は、その奥底に秘められた想いの矛先に馬越が気付いているだろうことを無視する。
「さっさと終わらせて帰りましょう」
「えー、ちょっと、話聞いてた?」
「聞いてましたよ」
「オレ、傘ないんだけど」
「僕は持ってます」
馬越くんつめたーい、と頬を膨らますその人から目を逸らす。相変わらず、自分が可愛らしく見える仕草というものを完全に理解している人だ。とても、腹立たしい。
「…別に、入れてやらないとは言ってないじゃないですか」
ぱちり、とその長い睫毛が揺れるのが嫌でも視界の端に入る。
「ねぇ、馬越くん。それってさぁ」
誘ってるの、とそう妖艶に笑みを向けてきたその顔面に向かって書類を投げつける。いったあ!と避けもせずそれを受けた悲鳴は聞かなかったことにして呟く。
「風邪引かれちゃ困りますから」
これ以上仕事ためられちゃたまりません、とそれは正しい心情だったはずなのに、どうしてこうも言い訳じみて聞こえるのだろうか。



紫電

***

いつもは絶対に言わないけれど(、ありがとう) 

 「休暇だ」
地区部長へ報告へ行っていたアカツキが戻ってきて開口一番に告げたのは、そんな言葉だった。
「休暇?」
「ああ、私と君の頑張りが認められたんだよ、平たく言えば」
ふふん、と自慢げな口調を正確に読み取ってため息を吐く。
「で?」
「で? とは?」
「どうせ俺の処遇も一緒に決められてンだろ? 俺だけ仕事か? それともお前がいない間は軟禁か?」
上に良く思われていないことは分かっていたし、それ相応の問題を起こしていることも自覚している。それを快くなど思ってはいないが。そのためにつけられた枷が直属の上司兼パートナー、つまるところのこいつ、アカツキであるのだとそれも分かっている。
「何を言ってるんだい、レディ」
やめろと言ったその甘々しい呼び名は未だ変わらず、もうそのままにしている。
「君も休暇だよ」
「え」
「まぁ勿論、私と行動を共にするのが条件ではあるがね」
ぽかん、と。きっとそんな間抜けな顔を晒していたのだと思う。
「そん、な」
「ん? 嫌かい?」
「いや別に、そういう訳じゃねぇけど」
そんな要請が通る、なんて。
 確かに地区部の下したレディバードに対する処遇はあまりに行き過ぎたものではあったが、だからと言って世界の均衡を重んじる地区部がそうそうと危険視している彼を自由にするはずがない。危険視しているからこその枷は死神の旧家出身であるアカツキに任されているのだが、そのアカツキとてその中では末端も末端で地区部に進言出来る程の発言力はない。
 「ま、残念ながら私の力ではないよ。一応君が私の言うことを良く聞いている現状を報告して、私の監視がついたままであれば休暇は問題ないのでは、とは言ってみたがね。こんな権力の欠片も持たない小娘の言うことを上が聞き入れるはずないだろ?」
「そうだな」
「そこは嘘でも濁してよ。今回は運が良かったんだよね、丁度関東地区部長が来てたんだよ」
「関東っていうと…ああ、あの白日家の当主か」
なるほど、と呟く。アカツキの生家とは対になると言っても良い家、それが白日家。暁家と同じく白日家も旧家であり、その当主ともなれば相当の発言力を持つのだろう。まだ若いと聞いたが、権力に年齢など関係ないと言うのがこの世界の認識だ。元々死神の外見年齢は其処まで成長するものではないと言うのもあるが。
「そ。そんな人が許可出せば良いとか横から言ったら、いくら頭の硬い上でも聞き入れるしかないだろう?」
「…嬉しいが、」
じっと考える。
「その当主、あまりに世間知らずじゃないか?」
上がレディバードを危険視する理由は先ほど述べたように世界の均衡に関係する。それをホイホイと横から許可を出すよう促すなんて、少々無謀にも思えるのだ。
「あはは、レディは良い子だなぁ」
軽い笑い声にむ、と頬に力を入れると、すぐさまごめんごめんと返って来た。
「うちの地区部長も同じこと言ってたよ。そしたらさ、あの人なんて言ったと思う?」
「知るかよ」
「あのね、もしもそんなことになったら自分が必ず彼を粛清します、だって」
何とも過激な返答だ。
「レディは人間にお熱だったから知らないかもしれないけどね、」
「その言い方やめろ」
「ごめんって。そんなに怒らないでよ。彼女、数年前に魔法使い界を救った一人なんだよ。だからそういうこともちゃんと分かってると思うよ」
へぇ、と相槌を打つ。それは知らなかった。
「ま、ということでこれから三日間、よろしくね」
「今更よろしくすることもねぇんじゃねぇの…一緒に住んでンだし」
仕事やら報告やらが不規則な死神は、パートナー登録をすると大体が一緒に暮らし始める。急な呼び出しがあったりそれが真夜中だったりすることもあるので、その方が何かと効率が良いのだ。レディバードとアカツキも例外なくそうしている。
 それもそうだね、とアカツキはまた笑ってぼすり、と隣に座った。
「…おとめ」
呼んでみてその名前の可愛らしさに笑いがこみ上げそうだった。外見は見えないので何とも言えないとしても、レディバードが知っているその性格からは、どうにもそんな可愛らしいイメージは沸かない。
「何だよ急に。気持ち悪いなぁ」
「可愛い部下に向かってそれはないだろ」
「自分で可愛いとか言っちゃうんだ? レディは」
「良いだろ減るもんじゃねぇし」
一通り遣り取りをしてから、きっと自分には似つかわしくないその言葉を、唇から落とすために息を吸い込んだ。



白黒

***

彩日十題(群青三メートル手前)
http://uzu.egoism.jp/azurite/
20160525 旧拍手