偃塞湖に魚は棲めない 

 この世界は狭すぎる。
 真っ暗な空間で右も左もなく漂いながら、ヨルはそんなことを思った。寒いも暑いもないはずなのに心が底から冷えていくような、そんな気もしていた。
 何故だろう。
 そんな問いはずっと繰り返したって無駄なのに、何度も何度も繰り返す。どうしてあの人は一つの身体に二つを入れたのだろう。あの子と自分は決定的に他人だった。それは言われなくても、確認しなくても分かっていた。分かっていないのはあの子だけ。
 あの子だけ、なのに。
「………いつ、誰が、言うんだろう」
こんな時の止まったような存在が、いつまで存在していられるのだろう。



水英

***

美しい右手 

 この手を人殺しの手にしたいんです、と少年が言った日のことを永倉は忘れることは出来ない。それは永倉だけが知っている事実だったし、他に誰も知らないことだった。少年がどうしてこの道を選んだのか、どうして強くなりたいと願ったのか。詳らかに説明されなくとも永倉は分かってしまっていた。
 そして、その日が少年としての最期の日だったということも、知っているのは永倉一人であるのだ。
「君の、手は」
触れることはしなかった。少年に触れることを永倉はよしとしていなかったし、そもそも少年とて何か言葉が欲しくてそんなことを言った訳ではないだろう。彼が欲しいのは人殺しになった自分だ。それが大儀のためとは言え、希望のためとは言え、人殺しをすることを厭わないようになるための決別だった。それを分かった上で永倉は少年を引き止めることが出来るほど朴念仁ではない。
「とても美しいです」
「…そんなこと言うの、永倉先生くらいですよ」
少年は最期に笑っていた。
 これから人殺しの鬼と成り果てるとは思えぬ、儚い笑顔だった。



紫電

***

セピア色の闌干 

 夢を見ないのは彼女が傍にいるからだと思っていた。いつだって探していた、何処にいるのかと毎日呼んだ。それでも彼女はやって来なかった、でも彼女は確かに私を愛していたのだ、ならば彼女が呼び声に応えない訳がない、私の傍に来ない訳がない。
 ならば、彼女はもう傍にいるのだ。そう思って探しに行って、見つけた彼女。正しかった、何もかもが正しかった、そのはずだったのに。一枚だけ残っていた写真は何処へ殺ってしまっただろうか、彼女がどうしても見たいと言った美しい橋。彼女が数少なくあの家を出られた証。
 何を間違えたのか。
 遠い日、愛しい人ともたれかかったその闌干が、色褪せて見えた。



No.

***

陳腐なロマンス、さもなくば使い古した愛情 

 優しく触れてくるその指先を、そっと掴んで拒んでみせた。それを今更悲しがってくれるような人じゃない、それは誰よりも、比古が分かっている。
「貴方が好きなのは、私じゃないくせに」
そう笑ってみせれば、ハの字の降ろされる眉。仮にも忍が、そんなに分かりやすい表情を晒して良いものだろうか。流石に、そんなことを言いはしない。
 これは、特権だ。
 何も嬉しくないけれど、そう思いながら。掴んだ指をそっと離す。
「あの人が、好きなくせに」
本当の名前すら知らない、私の救世主。
「嘘吐かないでよ、師匠」
 彼女への想いを上から塗り潰すくらいなら、死んだ方がましだとそう思った。



あけぼの

***

ぼくを憐れむのなら星屑を沈めてからにしなさいね 
 がん、と音がした。硬い地面に人が叩きつけられる音。この土地の人間とは貌(かお)のつくりの違う、髭をたくわえた男は親友の短剣を首元に突き付けられていた。
「誰の差し金だ」
こういう時の彼女の冷徹な声が、水沙は嫌いではない。
 この血を追っていた一番大きな組織は潰れた。しかし、水沙が生きる以上、歴史がある以上、いずれ誰かがこの力と血の存在に気付く。そういうものと戦う日々が好きな訳ではなかった。一度はすべて捨てたいと記憶を自ら封印して、殻にこもっていたことさえあったけれど。
 男は質問には答えなかった。それどころか嘲笑うように水沙を見上げて、そうして吐き捨てる。
「こんな血筋に生まれなければお前はもっと幸せだっただろうに…!」
 思わず、笑ってしまった。
「馬鹿にするのも相手を選びなさいね」
言葉を発さない草希の後ろから、水沙は笑いながら声を上げる。
「この力がすべて失くなった時、初めて貴方は私を憐れむことが出来るのよ」
 この男が黒幕を吐くとは思わなかった。草希、と名前を呼ぶ。すっとその短剣が引かれた。生命が終わる瞬間というのにも、もう慣れてしまった。
「一回情報屋とか行ってみる?」
「そろそろそれも良いかもね。費用足りる?」
「相手に寄るけど…ちょっと稼いどいた方が良いかも」
「そっか、じゃあ場所選んで占いしよっか」
 道は続いている。
 何も知らない他人に、この道がどうなっているかなんて分かるはずがないのに。



白狐

***

凍てつく罪悪 

 それを知った時、心の臓が凍り付くような心地に陥った。今までと同じように、愛する弟を見る目で、彼は旬を見つめている。同じ、おなじだ。同じであって良いはずがない、のに。ぞくり、と背筋を走っていたものが何なのか、旬には分からなかった。どうして、と唇が言葉を探す。どうして、どうして、どうして。
 彼は喋らなかった。そのままで良いのだと、言われているような気がした。幼いころから彼の大切なものを奪ってきた弟を、どうして彼は赦すのか。そんな、ことが。
「どうして、黙っていたんだ、兄さん」
知っていたなら、知っていたなら。
「どうして、殺してくれなかったんだ」
 貴方の憎悪に焼き殺されるなら、それはこの上なく美しい最期だっただろうに。



白狐

***

死人に涙を付けておかえしします 

 その死神さんに会うのは何度目だっただろうか。わざわざ会いに来ている訳ではない、ただかち合うだけだ、と言う彼の言葉に嘘はなかったと思う。だから運命なのね、と笑ってやったらやめろきもちがわるい、そんなものは人間の戯れ言だ、と吐き捨てられた。
「良いこと教えてやろうか」
だからきっとこれもただの偶然で、運命なんてものではなくて、でも何処かでうっかり信じてしまいそうになる心が、彼にあって。
「筑紫不知火」
肩が、揺れた。
 のだと思う。それは気配にまでなって、彼に伝わったようだった。くくく、と喉が鳴る音。良い趣味をしているなあと、流石に笑いが漏れた。
「不知火が、どうしたの」
「しらばっくれはしないんだな」
「貴方にしらばっくれるなんて、無駄でしょう?」
どういう仕組かまでは分からないけれど、死神は人間の魂の情報を探ることが出来る。つまり本名だとか、出生だとか。そういうものを隠すなんてことは無駄に等しい。だから笑ってみせたし、さっきの動揺だって久しぶりに聞いた名前だったのと、まさか死神さんからそんな策略を持ちだされるとは思わなかったのが原因だ。
「あいつ、死ぬぜ」
 長い沈黙のあと、出た言葉はそう、の一言だった。
「………? 妹じゃねえのか?」
「妹よ」
「何かないのかよ」
「何かって…そうね、ちょっと嬉しいわ」
「嬉しいのか」
「ええ」
嘘ではなかった。残念ながら、仲の良い姉妹だとは言えなかっただろうし、きっと彼女の方は私を恨んでいただろうから。
「どうやってあの子は死ぬの?」
「聞きたいか?」
「ええ、是非」
「出産に耐えられなくて死ぬ」
「ああ、そう…」
 最後に聞いた声は鮮やかに思い出された。
―――姉さんには分からないのよ。
―――あの人に愛されている姉さんには。
「あの子、あの人の子供が産めたの…」
それは、きっと、幸せね。そう言ったら目の前の死神さんが不可解だと言わんばかりの顔をした。よく表情の動くひとだ、と思う。それだからただの人間は、愚かなことをするつもりになるのかもしれなかったけれど。
「ねえ貴方、私と組まない?」
 笑う。
「損はさせないわ」
「ああ? 何だよ突然」
「突然じゃないわ、ずっと考えていたの」
ねえ、とその手を取る。振り払われない。
「いつかした契約の話、詳しく、聞かせて?」



筑紫不知火(つくししらぬい)



白狐

***

脊髄に惑う幾何学 

 特別悲しいことがあった訳じゃない。ただ何となくテレビを見ていて、嗚呼、なんて思っただけの話。それはユウにはまったく関係のない事柄だったし、そもそも関係があってもユウは関係があったからと言って心を動かすような人間ではないのだけれども。
 それでも、嗚呼、なんて思ったのだ。
 何かどうしようもなく、逃げ出したいような。
「エイ」
「仕方ないわね、聞くだけ聞いてあげるわ」
伸ばされる、手。
 今、どんな表情をしているんだろう。情けなくなった。



UNDER

***

脳細胞がどうかしている 

 それは一言で言うならば悪だった。世間でどう騒がれようとも、自分にとってそれがどんな意味をなそうとも、祖国を襲撃されたのだ。それを示す言葉は悪一つで良いに決っている。
 だと言うのに、本来ならば一番にそれを糾弾しなければならないはずなのに、それでもこの手はこの脚はこの唇は、罵倒よりも先に希望を紡いだのだ。
「ねえ貴方」
それは王女に相応しい声だっただろうか。
「私を連れていきなさい」
 彼女は何故、という顔をした。説明をする必要はないと思った。この国の王女がついてく、それは今後彼女にとっても利益になるはずだ。
「私一人くらいなら連れて行けるでしょう!?」
「一人、だけで良いの?」
 純粋な疑問の色に息をのむ。
「―――ッ」
「連れて行きたい人間が他にもいるのか。それは少々面倒だな」
「…でも、彼は行きたいかどうか分からないわ」
するりと言葉が出て来たのはきっと、ずっと前から分かっていたからだ。
 のんきに恋愛をするような場所ではなかった。だからこそ、憎み合うような関係を築いたのだろう。
「私が絶対に命令してでも連れて行きたかった人間は、もうこの世にいないから」
それから彼女は少し考えてからこの手を取った。ついてくるからには役に立ってよね、と言ったのを聞かなかったふりをした。



(そうであるならどんなに楽だったか!)



白狐

***

「きみ、片目の半分がまだ還って来ないんだって?」 

 それは合言葉だった。にっこりと笑って吐瀉物のような匂いのする酒を揺らす。そうするとカウンターの中の人間は少し警戒した顔になって、還って来ないのは左目だよ、と笑った。嘘だと分かる笑い方だった。胸に仕込んだ通信版をコンコンコン、と三度叩く。潜入成功の合図。
「はあー…」
充満する粉っぽい匂いに囲まれながら、思い切りため息を吐いたら入った先で睨まれた。
「なんだよ兄ちゃん見ない顔だな」
「すごい美人に紹介されて此処に来たんです」
「ほう」
「でも、刺激って言ってたのに。大したことないみたいで残念です」
ぴくりと動く眉、そして見合わせられる顔。
「ついてきな」
 いろいろと甘いなあ、と思いながらついてく。勿論、また胸をコンコンコン、と三度叩いて。
「兄ちゃん名前はなんて言うんだ?」
「人にはセンって名乗ることにしてます」
あからさまに偽名ですよ、と笑ってみせたら、案内を申し出た男は盛大に笑ってくれた。



いばら

***

「大嫌いなの。知ってるでしょ」 

 ユーカ、とその声は穏やかに―――と言ってもきっと、私以外には分からない穏やかさで、私を呼んだ。
「なぁに、兄様」
「…もう、私は」
「そうね、旦那様。何か用事だったのでしょう?」
「そろそろ、先代様の命日、だから」
分かっている、彼の言いたいことも、分家として何を示せば良いのかも。
 けれども私は行かないわ、と言う。最後の我が侭で、彼に笑いかける。体調が悪いことにしておいて、それで何でも片付くから。理由はそれだけじゃあ、ないけれど。



混淆

***

「この世の終わりに出逢ったみたいな顔してる」 
 そう言って女は笑った。やたらに背の高い、けれどもその表情は妙に子供じみた空気を醸し出す、あやふやな女だった。怖い? と女は聞いた。何が、と答えようとした。誰を前にしている、そう言うべきだったのかもしれない。
 答えない漠にふっと笑っただけで、女は次の言葉を放った。
「もう始めるのかい。君の終焉を」
「…ッアンタ、誰だよ、終焉って、一体…」
終焉、と聞いた瞬間身体の底をぞっと何かが走っていった。身構える。
「終焉は終焉だよ。君には聞こえているだろう? この不協和音が。もしも君が心中をお望みならまぁそれもそれで。美学ではあると思うよ。でも聞こえているようだから一応声をかけたまでさ」
「何が、言いたい」
ぎり、と力を込めた拳が白くなっていくのを感じていた。
「君の大切なものは裏切りを選択したよ、君もそうなのだと思っていたんだけれど違ったみたいだね? いやいや失礼、時間の無駄だった」
「な、ん…」
 大切なもの。
 その言葉に浮かんできたのは何よりもまず紫の色だった。そして、それが形取るのは、家族ではなく、王でもなく、ああ、なんてことだ、その場に座り込む。そんな、そんなはずがない。
 あんな。
 あんな高飛車でこちらの事情もすべて知っているくせに、何も分かろうとしない落ちこぼれを。そんな、はずが。
「悩むことは若者の特権だが生憎時間がない。君がそうしているなら私は君を置いていくことにするよ」
くるりと踵を返した女に、何を言うことも出来なかった。待てと一言でも言えたら、運命は変わっていただろうけれど。既に運命は断ち切られていた、大切なものは別の運命を選んで迎え入れた。
 すべてがもう手遅れだった。
 遠ざかる女が可笑しそうに笑い声を上げたのだけが、印象的だった。



白狐

***

痛々しくも甚だしい 

 「アンタって、報われない生き方してるよな」
「そうですか?」
精一杯の棘をもってして言ったはずなのに、きょとんとした言葉にすべて丸くおさめられてしまった。舌打ちをして、ああそうだよ、と言えば君にはそう見えるんですね、と呑気な声。
 この人のこれは鎧だ。
 分かっているのに、立ち入ることは許さないとばかりに彼はのらりくらり、いつもの柔らかい口調で躱してしまう。
「それが報われるか報われないかなんて、結局のところ本人の受け取り方次第でしょう」
それを逃げだと一刀両断出来なかった時点で。拳を握る。
 斉藤に勝ち目なんて、なかったのだ。



紫電

***

漆黒に滲む配下 

 一人でいることは悲しくない。
 母だけが一緒な姉を見送ったあと、彼女の遺した子供を育てながら思うのはそんなことだった。この子がいても、私は一人だ。私は、どうしても、一人だ。
 天を任された神なんてものを否定することも、そのバランスを取ろうと発生した闇を統べるものになろうとも、ずっとその感情は消えなかった。
 寄り添えるものがいる。寄り添える場所がある。それでも、脳裏にちらつくのは今は何処にいるのかも分からない双子の妹のこと。
「ほんとは、」
色彩をひっくり返したような彼女は、今何処で何をしているのだろう。あのおしゃべりな小鳥と、仲良くやっているのだろうか。
「あの子とずっと一緒にいたかった、って言ったら。あの子はいてくれたかしら」



蒼い空

***

狂おしいまでに劣悪 

 美しいと言われたことはあった、可愛い、はなかった。油断を誘うための性行為、その合間に男たちが紡ぐような可愛いは少し違うのだと分かっていた。
 あれは、侮蔑だ。
 自分たちよりも劣っているように見えるものを見つけると、彼らはすぐさま可愛いと言うのだ。語彙力の低下、とよくその腕の中で思ったが、もしかしたら人間などこんな程度のものなのかもしれない。というよりかは、人間の中で人間として育てられた人間たちは、こんな程度のものなのかもしれない。見下して、踏みつけて、それが当たり前だと言うように。
 けれども、と思う。同じ食堂で並ぶことのある、恐らく年下であろう彼ら。もしも人間というものが、その成長過程のその先がああであるのなら、彼らにはそうなって欲しくないと思う。彼らは人間にならないで欲しい、とすら思う。
 彼らはそんな言葉で表せられない、この世界で輝く唯一の希望なのだから。



No.

***

眠らぬ不夜城を埋葬 

 いつだって彼に掛ける声は甘えたものになってしまって、それを少し小轍は悲しく思うこともあったけれど。
「英知」
一人だけ大人になれていない、彼のそのゆるやかな歪みを許容出来ない、そんなふうに言われているみたいで。
「学校を卒業したら、英知は泡沫を消してしまうの?」
 二人を分けることが自らの愚直さの表れであると、分からない訳がなかった。彼らは別に、分かれている訳ではない。分けたいのは、分かれさせたいのは、小轍、だ。
「…元々、別れてはいない。演じることが、なくなるだけだ」
思った通りの回答。それ以外に答えがないことは、もうずっと、知っている。
「そう、か」
 でも、と彼は小轍の手を取った。
「千早」
「なあに」
「その時が来たら」
これは甘えだ、そう思う。どうしても本質とは違うことを言われる彼に、彼がそれを許していることに、小轍が耐えられないだけの話なのに。
―――英知は違うよ。
―――英知は、優しい人、だよ。
そう叫ぶことすら出来ない、だけの話なのに。
「一緒に、おくってくれるか」
 だから、小轍がそれに返す言葉は決まっているのだ。
「喜んで」



カナリア

***

試験的拉致計画 

 どうしたの、と聞いたのは目の前であまりに眉間に皺が寄っているような雰囲気を醸し出されていたからだった。実際に眉間は隠れているので、本当に皺が寄っていたのかは分からないが、あの状態で逆に寄っていなかったらどんな顔をしていたのか気になるところだ。
「お前を、誘拐するにはどうしたら良いのか考えていた」
「え、何、その物騒な話」
聞かなきゃ良かった、と息を吐く。
「ヤカゼがアンタを怖がるから、あんまりそういうこと言わないでよ」
「青い方がどうなろうが僕には関係ない」
「そうは言ってもアタシの半身なんですけど」
「そもそも青い方僕がいる時に出て来ないじゃないか」
「アンタが原因なんですけど…」
全面的にアンタを押し付けられるアタシの身にもなってよ、と言えばどうやら向こうはムッとしたようだった。
 簡単に言ってしまえば思春期なのだと。
 中間に立っている彼の双子の妹の話に納得をしてしまって、ならば、と言葉を続ける。
「行きたいとこがあるなら、別に普通に付き合うのに」
「そうなのか」
「そうだけど」
「なんだ」
それなら誘拐する必要もないな、と言った彼に、ああなんて箱庭思考なんだろう、とその時は笑った。
 やたらとお高い小旅行のプランを持ってこられて硬直するのはまた別の話。



白狐

***

たどたどしくも故意でありんす 

 彼女がいなくなったら、と思うことがある。こうして何度も何度も危険に晒される彼女を見ていると、不安になって泣きたくなって、でも彼女にそんな顔を見せることは出来ないから人間の姿に、彼女と似た姿になって、大丈夫だよ、と囁く。
 彼女が泣かなくなったのと、自分を抱き締めなくなったのは同じくらいの頃だった。昔はあんなに痛いほど抱き締めていたのに。
「ツウ?」
小さな声が呼ぶ。
「大丈夫なんでしょ、みんなを信じよう?」
不安で、不安で、たまらないくせに。
 ふと、このまま彼女が外に出たら、と思った。この洞窟は結界が張ってある、だけれども一歩でも外に出ればすぐにでも彼女の存在は彼女を喰いたがる妖たちにばれ、そして骨も残さず喰われることだろう。それに、誰も、間に合わない。立ち上がる。ふらふら、と自分でも何を考えているのか分からないまま、彼女と同じ姿のままで出口の傍まで行くと、彼女はついてきた。
「出ようか?」
彼女は笑っていた。外ではまだ闘いの音が響いている。彼女が此処を出ないのは、厳しく言いつけられたからだった。
「ツウがそうしたいならそれでも良いよ」
 とても美しい笑みだった。

 それが諦観なのだと知ったのは、彼女がいなくなってからのこと。



手の鳴る

***

泣き崩れればいいってもんでもないよ、きみ 

 父は厳しい人だった。
 正直、思い出なんてなくて、それだけが残っている。厳しい、人。そういう言葉でしか父を、捉えたことがなかった。家族であるとか、父であるとか、それ以前にただ単に、厳しい人=Bそれ以上でもそれ以下でもない、人。
 便宜上父と呼んではいたがそれが何を保証するでもなく、結局その家を飛び出してしまったのだから。
「―――」
でも飛び出したからと言って父の存在が自分の中から消える訳でもなかった。記憶よりも鮮烈に刻み付いたその厳しさは、ことあるごとに責め立てて来て、それで何度唇を噛んだかしれない。
「―――」
それでも涙を流さなかったのは。
 その昔父であった人が唯一与えてくれた背中の傷が、じくじくと痛むから、それ以外にないのだ。



紫電

***

フォルテッシモ、強がりのお前にお似合いね 

 ピアノがある、とロアが気付くのと、ピアノがあるでしょう、と声がするのは殆ど同時だった。これは夢だ、と思う。眠るのに任せて何度も何度も彼女を押し込めてきた故に、最近では勝手に夢の中に出てくるようになった。
『貴方、ピアノは弾けて?』
「………知っているだろう」
『まあ、知っているけどね』
そんなものは弾けなかった。練習している暇があったらもっと、殺すための技術を上げたかった。
 彼女は笑う。どうでも良いと言うように。きっと彼女をも求めないロアのことが嫌いで嫌いで仕方ないのだろう。楽譜が現れる。読むことは出来ない。此処、と彼女が示した場所は、彼女の指がなくとも分かった。
『知っている? フォルテッシモ。極めて強く、って意味よ』
「それくらいは知っている」
学校で習った気がしていた。
 弾いて、というので鍵盤に手を伸ばす。
 予想通り、溢れ出したのは鍵盤を叩いたような子供のいたずら、ただそれだけ。



ブラウン

***

わたくし海向こうの支配者です 

 レディース・アンド・ジェントルメン! とか言った方が良いのだろうか、とペンを回しながら思う。いやいやそれは不似合いだ、そもそもこんな誰かの夢のような箱庭の中で更に夢を見ているような世界、うたかたのほうまつよりもひどい重ね具合なのだ。そんな劇調に出来るほどの余裕はないし、そもそも観客もいない。演者はアタシ一人、観客もアタシ一人。どうにもならない世界でそれでもアタシは、一人で踊って一人で笑うのだ。
 どうして、なんて言うまでもない。
 どういう形にしろ、アタシは世界を愛しているので。



世界

***

覗かれろ暴かれろ砕かれろ、僕は未だ君の懺悔を聴いていない 

 がりがりがりと恐らく手紙を書く少女を見て何を思った訳でもなかった。そもそもレディバード・ガランスという死神は純血種の死神ではあるが混血であり、優秀な方ではあったがそれは仕事完遂率やらそこまでの速さを言うだけの話で、純血種の死神として優秀であるとかそういう話ではないのだ。だからそれは偶然で偶然でしかなくて、ただ転んだとかそういう不幸あっての偶然だったのだ。
 その魂に触れた瞬間、分かった。延々と手紙を書き続ける少女。合間の呟きはきっと、それが恋文であることを知らせている。その匂いに面影はなくとも魂は嘘を吐かない。
 これは、あの女だ。
 散々契約を引っ掻き回した、あの人間と同じ色をしている、と。
―――殺してやりたかった。
 例えそれが死神の掟に反することでも。今すぐ殺して、裁判へと送ってやりたかった。あの遣り方ではあの女は前の時に裁判を受けていない。地獄行きは免れないだろう。そのために自分自身が地獄へと行くことになっても、それはそれで―――とそこまで思った時に浮かんできたのは気の抜けた上司の声だった。レディちゃん、と呼ぶ、甘やかな声。それがまるで引き止めるかのようにふっと湧いて来た。
「………ふん」
もうその魂は欲しくなかった。
 ずっと欲しかったものを手に入れたからかもしれなかった。



白狐

***

葬列を甘受せよ、我等はまだ暗き幽冥には程遠い 
 泣くことが出来たのだ、と最初は思った。
 そんなこと想定もしていなかったのでまず泣けたということが涼水に大きな驚きを齎したのだ。人は信じられない現実に対面する時泣くことが出来ないと言う。涼水だってあのすべてが変わる夏、そうだったはずなのに。
―――今回は、泣けた。
つまりそれは、涼水が何処かでそれを予期していたということ。それが、涼水には信じられなかった。
「悲しいことはこれからもきっと山ほどあるわ」
 はらはらと涙を流す涼水に、幼い姿を取った彼女は言う。
「涼水、貴方にそれを受け入れるだけの覚悟があって?」
これからも、これからも―――いつかの夢物語を涼水が思い起こしたのだと、彼女には分かったのだ。だからこそ、そんなことを言った。
「…うん」
それに返す言葉は決っている。
「受け入れるよ、受け入れられるよ」
 ああ、だって、
「いずみは私にそうしてくれたんだから」



白狐

***

満たされた世界の半分は×××で出来ています 

 決まりきったレールの上だけの人生だったと、確かにそれは間違いないと思う。この狭い箱庭から顔を出すことは不可能ではないのだから、イレギュラーのように思われたモラトリアム期間のことも大した問題にならなかったのだ。
 この家にとって、感情とはきっと一番に不要なものなのだ。神でないものを神にする、そのためにある犠牲のうちの一つなのだろう、と思う。神は神がするから神であるのだ、そうでないものがそうあろうとすれば、自ずと何かを代償にする。
 所謂青春、なんてものもその一つだった。感情の渦巻くものたちがそう呼ぶ期間は、きっと神にとっては毒にしかならないのだろう。それでも、と思う。それでも、ああ、それでも。
「お前に、会えて、」
昔はこんなことを言葉になんかしなかた。
「よかった」
 今だって望めば会えるだろう、彼らはそういう存在だ。こちらの世界に落とされたイレギュラー。生きられるように構築された、半永久的な存在。可哀想、それを妻であるかつての少女はそう言ったけれども。
「俺はお前を可哀想だとは思わない」
思わない、思わないとも! そんなことを望む少女ではないし、そんなことをしてやるほどこちらもまた、感情に長けた生き物でもなかった。神の一族に生まれたのだからそれは当然なのかもしれなかったけれど。
「お前がそうでなければ、」
出会うことなど、なかったのだから。
 記憶の中で少女が笑った。そういうことは直接言わなきゃだめじゃん、と言われた気がした。



白狐

***

憎悪と愛情屑籠往き 

 決められた結婚だった。本家は自由に恋愛も結婚もして良いはずなのに、どうして分家ばかりがと思うけれども、本家はそもそもが世界との契約であって分家はそうではないので、恨み言を言うだけ無駄だった。
 そう、それは分かっている。この家に生まれたのが悪い、不運だった、そう思うのは楽だけれど。出すつもりだったのだろう、封をされた手紙を見つけて、中身も見ずにゴミ箱へと放り投げた。宛先だけで彼が何を書いたのか、想像の出来てしまう自分が嫌だった。
「私のことなんか愛していないくせに」
それはいつか彼が言った言葉だった。
―――この結婚に愛なんてない。
―――だから、貴方も本物の愛を見つけなさい。
 結婚をしても彼は一人の女に手紙を出すことをやめなかった。それが答えだと思っていた。口当たりの良い言葉で誤魔化そうとしても、こんな箱庭の中で朽ちていく少女だとしても、そんなものに騙されるほど馬鹿ではない。
「でも貴方のそれだって、愛なんかじゃなくてよ」
それは呪いだった。
 少女に出来る唯一の、呪いだった。



混淆

***

まるで聖女の如く尊きいきもの 

 母親の愛というものをスズミは知らない。スズミには母親というものがいないからだ。いつだって父親は母親のことを尋ねると困ったように笑うから、多分そういうことなんだろうな、と勝手にあたりをつけていた。うだつの上がらなそうな父親だった、だから母親にも遊ばれたか、捨てられたかしたのだろう。その割にはスズミは世に生まれでているので、それだけは不思議だったが。
 そんなふうに思っていたから、スズミは母親を羨ましく思ったことはない。時折片親なことをからかわれることはあったが、それはそれで、母親が欲しいと思ったこともない。
「でもね、お母さんって私のこと本当はちゃんと考えてくれてたんだって―――」
ファミレスの後ろの席で嬉々と語る少女の声に、スズミはため息を吐いた。知らない人間なので何を言うこともしないけれど。
 スズミはそんなものは存在しないと思っていた。
 世間で神聖視される母親の愛というものは、誰かの作った都合の良い幻想なのだと、そう思っていた。



吸血鬼



透徹
http://m-pe.tv/u/page.php?uid=9yls&id=1&guid=on

***

20170903