レスヘヴン 

 白と黒は絶対的に違う色だ。誰もそれを見て同じ色だなどと言わないだろう。それは分かっている。濁らない、交じらない、絶対として対立するもの。
 だからそれを見て、誰もが世界を思い浮かべるのだ。

白と黒

 ヴィランス・カイは空を飛んでいた。仕事の途中、白い羽根を広げて、ふと振り返る。
 何かに、呼ばれたような気がした。
「…誰?」
胸がざわざわと騒ぐ。呼んでいる、呼んでいる、行かなくては。支給品の警棒をぎゅっと掴んで、まるで、操られるように。
 白い少女は飛んで行く。巡回の仕事は放り出して。優秀故に一人で巡回を許されていたのが幸いした、誰も、ヴィランスが持ち場を離れたことを咎めない。
 そして、ヴィランスは見つける。
「…悪魔」
ぞくり、震えたのは何だったのか。
―――私たちの、存在の意味?
 ふるり、とその長い睫が震えて、横たわった少女の瞼がゆっくりと持ち上げられた。



 交じらないからこそ、ただそれだけで存在する。
 そして、それは世界をかたちづくる。

黒と白

 スィーは人間界の森の奥にある、人目につかない洞窟に横たわっていた。
 ただ、お腹がすいていた。この背中の羽根が黒くなってからと言うもの、何かが足りないという気持ちが延々と続いている。
「このまま…」
目を瞑ってしまったら、どうなるのだろう。悪魔が死ぬなんて聞いたことがなかったけれど、生き物である以上、やはり死ぬのだろうか。
 どうして、世界は分かれているのだろう。ぼんやりとした頭で、そんなことを思う。この背中の羽根と同じように、明確に区切られた世界。意味なんてあるのか―――そんな恐ろしい考えさえ浮かんでくる。
 神は、存在する。それをスィーは知っていた。信じているとか信じていないとか、そういう次元の話ではなく、存在を既に目撃しているという意味で知っていた。彼らが、スィーと同じように生きているものであるならば、それに気まぐれというものがあっても、可笑しくないだろう。もしかしたら、今、こんなにお腹がすいて眠いのも、彼らの気まぐれの一つの結果だったのだとしたら―――そんなことを思って、意識が白く引っ張られたその瞬間。
 何かの、気配を感じた。
「…悪魔」
このボロボロの身体を目の前にして、そんな歓喜の言葉を吐くのは。
 力を振り絞って瞼を持ち上げる。
「………天使」
まるで鏡に合わせたような白い少女が、其処に立っていた。



 とても心地の好い夢だった。

運命だったとでも

 ばっと目を開く。
「あら、起きた?」
いつの間にか意識を失っていたらしい。スィーはその声の方へゆるゆると目をやって、そしてその先にあった影に思わず起き上がろうとした。
 が、先ほどまですっからかんだった身体がそう俊敏な動きが出来る訳もなく。
「まだ寝てなくちゃ駄目よ」
「…ッ、なんで、天使が、」
「天使だけどね。私にはヴィランス・カイって名前があるの。ああ、ヴィラって呼んで」
呑気に自己紹介なんてして来る天使に警戒が解けない。
 天使と悪魔は対立する存在だ。天界と人間界の秩序を守っている天使と、その秩序を乱す悪魔。そのために天使の中には学校も階級もあって、巡回業務だってあるはずだ。そんな天使が悪魔を見つければ、することは一つ。
「貴方の、名前は?」
通報。
 …の、はずなのだが。
「…天使に名乗る名前はない」
「そんなつれないこと言わないでよ」
手が伸びてくる。首でも絞めるつもりだろうか。幾ら天使が基本は戦闘行為をしないとしても(悪魔討伐というのは他の種族が担うことが多い)、こんなに弱り切った悪魔なら一捻りだ。
 するり、と指が頬に添えられた。冷たい手だな、と思う。
「教えてくれたら、」
吸い込まれそうな紫の瞳。
「上には、報告しないでいてあげるわ」
 さあ一体、囚われたのはどちらだったのか。



 おちる、おちる、おちていく。

触れ合う

 唇が震えた。何を、この天使は何を言っている? 知らないのか、悪魔がどういうものであるか。いや、そんなことはない。天使というのは級付きだろうとなかろうと、その身を守るための教育はなされているはずだ。ましてや、この天使は黒い制服を着ている。上一級だ。主な仕事には含まれないが、悪魔を狩る訓練だって積んでいるはずだ。だと言うのに彼女がやったのは呑気に自己紹介をする、なんてことで。
 もしかしたら馬鹿なのかもしれない。こんなにお腹が減っていなければ、逃げられたからもしれないのに。
「それとも、悪魔には名前がないの?」
ねえ、とヴィランスが形の良い唇を歪めて笑う。天使、と言うにはあまりに邪悪な表情であるのに。
「………スィー」
まるで吸い寄せられるように、そう答えていた。
「それだけ?」
「…さあ。私の中に残っているのは、その名前だけ」
「随分、気になる言い方をするのね」
興味が尽きない、と言った様子を隠そうともせずヴィランスは見つめてくる。
 誰が相手でもそうなのだろうか。それとも、目の前にいるのが悪魔だから? 天使が悪魔のことをよく知っているとは思えない。悪魔であるスィーだって、悪魔のことがてんで分からないでいるのだから。
「…分からないの。ただ気付いた時には此処にいて、それで私は…自分の名前と、空腹感以外、何も………」
素直に吐露した言葉に、ヴィランスはそう、とだけ呟いた。
「悲しいわね」
「…そう?」
「ええ、悲しいわ」
 その言葉が何に対してなのか、スィーには分からなかった。
 分からなかったけれども慰めるように伸びてきた指の冷たさが心地好くて、スィーはそのまま目を瞑った。



 生命くらい、安いもの。

堕天使

 ヴィランスはスィーの髪をいじるのが好きらしい。空腹は変わらずそこにあったし、身体も重くてたまらなかったから、スィーはもうヴィランスに好きにさせていた。
「スィー」
その途中で、ヴィランスが小さく呼ぶ。
「貴方、天使だったみたいよ」
何を突然、と目を見開くと、白い指がつつ、と項を滑っていった。彼女は天使だから、悪魔のように爪は尖っていないはずなのに、どうしてこんなにも背筋が凍るのだろう。
「ほらここ、ちょっと待ってね、鏡を出すわ」
ごそごそ、とポケットを漁る彼女に、スィーが出来ることはない。
―――だめだ。
そう思うのに、止めることが出来ない。
「見える? 堕天の印よね、これ」
 瞬間。めぐった記憶。思わず身体を丸め込んで、叫びたいのを我慢する。
「スィー」
唇を噛まないで、とヴィランスの指がスィーの唇を拭っていった。その白い指先を紅が彩っていくのが分かる。ああ、ああ―――声にならない声。
「教えて」
耳元で囁くのは天使なのに。
「思い出したんでしょう? スィー」
ボロボロの黒く薄い、コウモリのような翼を滑る指。愛おしく、そっと、撫でるように。そのやさしげな動作さえ、スィーを追い詰める仕草に感じられる。
「ねえ、何があったの? 話してくれるでしょう?」
―――ともだち、だもの。
 どちらが悪魔なのか、もう、分からなかった。



 私は一人、泣くことすらも許されないで。

密約

 どうして自分が堕ちたのか、それは分からなかった。気付いたから地上にいて、名前だけを抱えて、スィーはいた。自分が何者なのか、その手がかりはない。項だけがひりひりと焼けつくように痛くて、自分で確かめは出来なかったけれど其処に堕天の印があるのは容易に推察出来た。
 知りたくも、なかった。
 名前だけで良い、そう思う。このまま、闇に食われるとしても、もう、それで。そう思っていたスィーが出会ったのは、一人の悪魔。
「…おねえちゃん、天使?」
「残念ながら違うわ」
「でも白い翼」
「堕天使よ」
「やっぱり天使なんじゃない」
小さな少年の貌(かたち)を、美しい貌をした悪魔は笑う。それに既視感を覚えたのに、その元までは辿れないで。
「いいなあ、羨ましいなあ」
 少年は悪魔を憎んでいた。
「お腹がすくんだよ」
良く笑う子供だった。本当に子供だったのか、そこまで突っ込んで聞くことはしなかったけれど。スィーにはもう、誰かに関わる気力はあまりなかった。少年だって、話しかけてくるから放っておくだけで。
「お腹がすくんだ。人間を、不幸にしたくてたまらなくなる」
「人間を、不幸に…」
「うん。人間の絶望で、悪魔はお腹を満たしてるの」
 少年の話は興味深かった。そうであるならば悪魔が人間に手を出すのは彼らの生命活動のためである、ということになる。それを邪魔し、更には見つけたら討伐、だなんて。スィーはずっと悪魔というものは好き好んで人間に手を出しているのだと思っていた。思っていたから、薄っすらと残る記憶の中でもスィーは悪魔討伐に関して疑うことをしなかった。
「でもそれは、僕には気持ち悪い。僕は生まれた時から悪魔だった―――もし前世なんてものがあっても、僕は覚えていないけれど。でも、気持ち悪いんだ。人間を不幸にする、なんて」
ね、おねえちゃんもそう思うでしょ? 首を傾げた少年に、そこに飢えがあるのならば、もっと別の方法で付き合っていけるのではないか、そんな夢まで抱いた。
 抱いた、のに。
 飢餓感に苦しむ少年にスィーがしてやれることは少なかった。ただ頭を撫でて背中を撫でて、彼の尖った爪がスィーの肌に傷を作るのも構わず抱き締めてやるだけ。
―――なんとかしてあげたい。
スィーは強く思った。同時に、
―――代わってあげたい。
そうも、思った。

 そして、ある日、思いつく。
「ねぇ、おねえちゃん」
泣きそうな顔で。
「僕に、」
「………わたしに」
 その翼をくれない?



 どうせ戻れないのなら、いっそのことなりきりたかった。

悪夢のような

 そうしてふたりはつばさをとりかえっこ。
 絵本か何かだったらそんな可愛い文句のあとに、少年は天使の翼を手に入れて、スィーは悪魔の翼を手に入れて、そして幸せにくらしましためでたしめでたし、と締めくくられるのだろう。しかしこれは絵本ではなかった、現実だった。
 想像を絶する痛みとは、このことを言うのだろう。そう思った。身体を内から外から焼かれるような心地。
「これで、もう、おなかはすかないね」
少年は涙を流したまま笑った。
「僕、今、とっても満ち足りた気分なんだ」
そうして笑ったまま、そのまま落下していった。悪魔が落下するなんて、もしかしたら彼の望み通り天使に、堕天使だとしてもなれていたとして、落下するなんてこと、普通ではあり得ない。
 その落下の途中で彼の身体は砂のようになって、風に乗って一つ残らず消えてしまった。スィーは必死で手を伸ばしたけれども、一つの欠片だって掴めやしなかった。
―――どうして。
そう問うことはしなかったけれど、彼は幸せだったのだろう。彼を悩ませていた空腹感は、もうすべてスィーが引き受けていた。
 人間を不幸にする。
 元・天使の自覚があるだけに、そんなことは出来なくて、堕天の印とコウモリのような翼を抱えたままスィーは彷徨うことになった。空腹感は凄まじくて、そのうちスィーの中のいろいろなものを曖昧にしていった。記憶も、そのうちの一つ。
 そして、本当に自分が何者なのか分からなくて、空腹感に耐えかねて眠りにつこうとしたところで。
 ヴィランスと出会った。



 世界がそう、出来ているように。

美しい接吻け

 そう、とヴィランスは呟いた。
「私はそうして悪魔になったのよ」
言葉にすることで、曖昧だった記憶はすべて綺麗に蘇っていた。堕天する前のことは分からないままだったけれども、それ以外は、すべて。
 記憶が曖昧になっていたのは凄まじい空腹感だけではなかった。誰よりもスィー自身がそのことを忘れたかったのだ。心の整理がつかなかった。どうして自分は生き残ったのだろう、どうしてあの少年が死ななければならなかったのだろう。スィーは彼によく似たものを知っていた、それが誰かまでは分からないが。名前も顔も知らないはずの誰かと、少年の最期の笑顔が重なって、まぶたの裏に張り付いて離れない―――。
「私、後悔してるのよ」
思い出すのが辛かった、だから空腹感にだけ意識を注いで、望み通り忘れたのに。
「どうして?」
 美しい声がする。
「どうして後悔なんてするの?」
貴方は貴方のしたいことをしただけじゃない、とヴィランスは笑う。スィーが苦しむのが嬉しいというように、その口唇は美しく歪んでいる。
「私は、あの子を殺したの」
「私はそうは思わないけれどね?」
手が伸びてくる。綺麗に整った爪、すべらかな肌、天使、そのもの。それがふわり、とスィーを包み込む。指先の冷たい感覚とは無縁の存在のように、ただ、あたたかく。
「だって、」
声が、優しい。
「その悪魔が死んでくれたおかげで、私はスィーに逢えたんですもの」
 息が止まりそうだった。
「堕天使のままでも会えたかもしれない」
そう呟くスィーに、ヴィランスはそれはないわ、と笑った。
「…どうして?」
姿形など関係ないだろうに。そう眉を潜めるスィーに、ヴィランスは抱き締める腕に力を込めた。まるで、もう絶対に離さない、そう言うかのように。
「私たちは天使と悪魔。光と闇。白と黒」
呪文のように、御伽話のように、ぽつり、染みこんでくる対比たち。
「反対だからこそ―――私たちは出逢ったの」
 影が一つに溶け合い、消えていった。



 会いたい、会いたい、会いたい。
 この感情の名前を貴方は知っているでしょう?

決して分かり合うことなど

 足音が聞こえる。
「ヴィラ!!」
がっと、誰かがヴィランスの肩を掴んだ。
「…何? フィクレスファラカスト」
長ったらしい名前、それを嫌っている。それを知っているからこそ、わざと言う。
「あと、貴方にヴィラなんて呼ばれる筋合いはないわ。余所余所しくカイと呼びなさいよ」
「余所余所しくって…幼馴染だろ」
お前んちは全員カイじゃねーか…と続ける自称・幼馴染をヴィランスは目を細めて見遣った。自称も何もきっと他称でも彼はヴィランスの幼馴染であるのだろう。馴染んだ記憶はないため、その認識を撤回して暴れたい気分だがそんな時間すら惜しい。
「…お前、最近何処行ってんだよ」
「貴方に教える義理があって?」
「闇の匂いぷんぷんさせといて言うことに欠いてそれか!?」
「あら、とうとう頭のみならず鼻までおかしくなったの?」
「ヴィラッ!!」
鼓膜を打つ、悲痛な責める声。
 彼は分かっている。ヴィランスが悪魔と会っていることを。分かっていて、こうしてかまをかけるような回りくどさで接してくるのだ。ヴィランスはそういうものが嫌いだ。面倒、だから。そして、不愉快、だから。
「分かってるのか」
彼の目は真っ直ぐにヴィランスを見ている。ヴィランスの瞳に、彼はきっと一生映ることなんてないのに。
「闇に近付けばお前の生命が削れるんだぞ!?」
天使と悪魔は対立するもの。そんなものは大昔の話だ。けれども、どんな生き物にも進化というものがあった以上、先祖返りというものは一定数存在する。
 天使は純粋な生き物だった。
 闇に近付けば近付くほど、生き物としてのバランスが崩れて、寿命が縮まっていく。そういうものだった、少しずつ、そうでなくなっただけで。
「それがどうしたの?」
ヴィランスは先祖返りだった。闇に近付けば近付くほど、生命を削る。そんな、弱い身体。級付き天使になることだって、家族に良い顔をされなかった。家族でもないこの幼馴染が、一番うるさかったけれど。
 生命が、削れる。
 そんなことは分かっていた。だって自分のことなのだ。今更、馬鹿な幼馴染に指摘されることもない。
「貴方には関係のないことでしょう?」
「関係あるッ!!」
「どうして?」
残酷なことをしている自覚はあった。でもそれは世間一般における、残酷だ。
「だってオレは…ッ、お前が好きだから…!!」
「あら、そうだったの。だから何度追い払ってもふてぶてしくついてきたのね」
 ヴィランスの中でそれは残酷の範疇に入らない。
「でもそれも今日で終わり。私は貴方のことなんて好きでもなんでもないのよ、フィクレスファラカスト。私は、貴方のことを嫌ってもいない。何とも、思っていない。それがどういうことだか分かって?」
ヴィランスの中で残酷とされるのは、
「私が好きなのは、あの子だけなの」
誰よりも愛おしい悪魔と、共にいられないこと、だけだった。
 さよなら、とは言わなかった。そのまま落ちるように空へと飛び出す。項に鈍い痛みが灼け付いて、ああこれでお揃いだ、なんて思った。



 でも、どうしてそんなに求めているの?

痛み

 これで解放された、という気持ちがヴィランスの中には確実にあった。そして、きっとこのことを知ったらあの馬鹿な悪魔は泣くのだろう、ということも。
 天の国に未練があるかと問われれば、今のヴィランスはない、と言い切ることが出来る。少し前までは調べたいことがあったから天の国に入れなくなれば少し残念に思う気持ちがあっただろうけれど、それが片付いてしまった今では何を思うこともない。
 生まれた場所、育った場所。それが何だと言うのだろう。
 ヴィランスはスィーがいれば良かった。見つけた彼女が自分のものであれば、その他はなんだっていらなかった。何もかも、家族も地位も自分を心配してくれる存在も。そういう存在のおかげで今まで生きてこられたのだと、そう言ってしまえば確かにそうだったけれど。晒され続けた所為かヴィランスは何処かその感情について煩わしささえ覚えて、両親も友人もあの自称・幼馴染も、誰もが口を揃える言葉について耳を塞いでいた。
―――ヴィランスは、特別だから。
それがなんだって言うのだろう、と思う。特別、というのならば悪魔と翼を交換しても生き残った、スィーの方が特別ではないのだろうか。
 好きと、その言葉を口の中で繰り返してみた。自称・幼馴染の感情の名前についてヴィランスはずっと前から知っていた。そうしていつも、分かっていないくせに、と思っていた。
―――こんなに好きなのに。
見捨てた彼はそんな顔をしていた。知ったことか、と思う。分かっていないくせに、ヴィランスがどのように生きていきたかも、何を考えているかも、生まれたその運命についてどう思っているかも、なにもかも。彼は幼馴染だから、という一点においてすべてを分かった気でいただけだ。ヴィランスは一度も、彼に理解して欲しいなどとは言わなかったし、思ったこともなかった。
 全て、彼が勝手にやったこと。
 それで勝手に失望され傷付かれるなんて、やっていられない。項はじりじりと傷んでいた。まだ身体に馴染まないらしい。スィーも痛かったのだろうか、と思う。思うけれどももう、どうでも良い。私には、あの子だけだから。
 少し笑って。



 知っている、知っている、知っている。
 犠牲はつきもの? いいえ、いつだってあった。貴方が認めたくないだけで。

さよなら

 いつものように努めていたつもりだった。自分で動くことすらままならない死にかけのスィーの世話をして、そうして他愛もない話をする。悪魔のことがもっと知りたかった、スィーのことがもっと知りたかった。だから、それを知るためにスィーに話をさせているだけで、自分のことをしゃべらないのはただ単に、彼女の話を聞く方が楽しいと、ヴィランスがそう思っているからで。
 なのに。
「ヴィラ、何かあった?」
スィーの真っ青な晴れの日の空のような瞳が見上げてくる。
「何か…隠し事、されてるみたい」
変よね、とスィーは笑った。否、笑おうとした。引きつった頬がいびつに、無様な表情を作り出している。
 まるで、泣く寸前、みたいな。
 「どうして、そんな顔するの」
「…私、どんな顔してるの?」
「泣きそうよ」
今にも、声を上げて、とヴィランスが言うと、スィーは分かっていたとでも言うようにそう、と小さく呟いた。
「どうして泣くの」
「泣かないわよ。だって、疲れるもの」
「…そうね」
「でも、もしも体力があったなら」
手が伸びてくる。
 震える指先が、ヴィランスの長い髪をかき分けて行く。
「貴方のために、泣くかしらね」
スィーと同じ場所。
 スィーからは見えなかったけれど、堕天の印は未だ熱を持ったまま其処にあった。



 嘘だと思うのなら、生命くらい賭けてあげる。

悪魔の囁き

 空が青かった。ねえ、とヴィランスの小さな声がして、なあに、とスィーがそれに返す。二人の時は静かだった。まるで世界に二人だけになったかのような気分。神やら何やら、取り締まる側のものがいる以上、そしてこの身体に堕天の印が刻印された以上、それは幻想でしかなかったけれど。自称・幼馴染を筆頭として、それに感化されないものがいないとも限らない。
 これは、ヴィランスの決めたこと。スィーが何をしただとか、そんなことは一つもないのに。何から何までヴィランスの意志で、それ以外の何ものでもないのに。
「私、もう戻れないのよね」
「そうね。戻れるのならば私は此処で死にかけてたりはしないでしょう」
「…スィーは、戻りたいって思っていた?」
「思っていたら翼を交換したりなんてしないわ」
それもそうだ、と思う。
「スィーは天使を名乗ることに抵抗があった?」
「堕ちてから、ってこと?」
「当たり前じゃない」
「そうね、あったかも」
消えた少年に問われた時、スィーは一度も自分を天使だと名乗ることは出来なかったと言う。それがどんな感情から来たものなのか、きっとスィー自身も分かってはいないだろうけれど。
「ねえ、スィー」
 ヴィランスは自分の頬にどんな笑みが乗っているのか分からない。
「悲しい?」
「…何が?」
「だから、悲しいのかなって思ったの」
「どう、いう…」
スィーの瞳がヴィランスを見上げる。見上げてくる。それに映り込んだヴィランスはいつもと違う顔をしているように見えた。
「だってスィー、声が泣きそうだから」
「………それ、は、」
天の国から追放されて、これからまた同じように悪魔になるかもしれなくて、記憶も失うかもしれなくて、それで、それで。スィーの考えそうなことなんて分かるはずなのに、どうしてかヴィランスは自分のことなのにスィーと同じようには思えない。
「帰る場所を失くした自分のことを、重ねているの」
静かにスィーは言う。
「私は貴方を見て、自分を悲しんでいるのよ。何年越しなのか分からないけれど、やっと私は私を可哀想だと認めることが出来たの」
「…詭弁ね」
「そうかもね」
 スィーが笑ったのでヴィランスも笑った。それだけが、今出来ることだった。



 貴方と居られれれば、それで。

天使の微笑み

 死ぬまで一緒にいましょうか、と言ったのはスィーの方だった。ヴィランスが堕ちてからというもの、スィーは前よりも喋るようになったような気がしていた。それは彼女の残り少ない体力を削る行為だろうに、スィーが死んだとしてもヴィランスが天使に戻ることはないと言うのに。
 それでも、
「良いかもね」
抱き締めたのは、これから彼女を傷付けることを言うのだと、そういう自覚があったからだ。
「死ぬまで一緒にいましょうよ。スィハーザ・ネクストレイン」
 突然落としたその名に、スィーは聞き覚えがないというような顔をしてみせた。
「貴方の、本当の名前よ」
記憶というのは切欠さえあれば戻るのだろう、とヴィランスは思っていた。別に戻って欲しい訳ではなかったけれど、それでもスィーには、スィハーザにはすべてを知っていて欲しかった。
「貴方は堕天使だった。堕天する天使は多くないわ。それで、貴方の見た目に合う者を探した。ただそれだけのこと」
「…それを、探して。何がしたいの」
「やだ、私、別に性格が悪い訳じゃないのよ。ただ、貴方のことが知りたかっただけ。貴方は、魔王と通じた罪で堕天させられた…ということになっているけれど、真実は恐らく、違うんでしょうね」
「それで?」
「素直に聞くのね。怖くないの?」
「怖いわよ。貴方が嘘を吐く可能性だってあるもの」
「それが分からない貴方じゃないでしょう。…ネクストレイン家は貴族よ。当主は堕天くらいなら何処を通すこともなく執行出来る」
続きを促す視線。
「貴方は、裏切られたの」
―――ねえ、貴方はそれでも、世界を憎まないの。
 ヴィランスはずっと不思議だった。スィーは、スィハーザは、一度もそういった恨み言を零さない。記憶がないからと言って、今死にかけているのだって世界が彼女を断罪したからであろうに。
「自分の夫である者に」
だから、ヴィランスは事実を、すべてをもってして集めた事実を突きつける。
―――ねえ、私と同じくらい、世界を憎んでよ。



 母だと言うのなら、私を産んでよ。
 誰も憎まなくて良い世界に。

胎内回帰願望

 ヴィランスはその生まれ持った性質から、この世界を幼い頃から憎んでいたと言っても過言ではない。だからこそ周りの心配などは煩わしいだけだったし、この憎い世界で生きながらえさせようとする周りの力が嫌いだった。
「貴方の産んだ子供の一人に、闇の印があった。夫はそれを見て恐れ、そして怒った。気高き天使である自分の妻が、魔王に通じたと、そう思った夫は―――」
「やめて」
「貴方と口論になり、貴方を、」
「やめて! ヴィラ!!」
 強い拒絶の言葉にヴィランスは何処か安心したものを感じていた。スィハーザの中にも憎悪があったのだと、やっと思えた。ヴィランスの中でスィハーザはずっと、清廉だった。堕ちても悪魔に転じても、清廉のままだった。
―――それこそ、天使のように。
 ヴィランスの大嫌いな、天使のように。
「あの子は、私の子供だもの」
「…思い出したの?」
「少し。でも、もう思い出させないで」
ヴィランスの腕の中でぐするように声を上げる様はまるで赤子だった。
「あの子は、私の子供なの。誰が親だろうが、私が腹を痛めて産んだ子供よ。あの人は―――あの人は、所詮私を愛してはいなかった、それだけでしょう」
 ぐらり、と視界が傾く。
「…貴方は、」
喉が、震えるまま言葉を転がしていく。
「母親、なのね」
「………何よ」
泣きそうな瞳が見上げてきた。強い、瞳。
「名前も思い出せないような我が子をこんなに愛おしく思うなんて、貴方には馬鹿げていると映るのでしょうね。………ああ、どうして、」
もしも自分の母が、こんな存在だったら。
 ヴィランスは世界を憎まなくてすんだだろうか。
「私からあの子を奪おうとするの。魔王なんて大嫌いよ」
「………仮にも悪魔なのに、魔王が大嫌いなんてね」
「じゃあ逆に聞くわ。貴方に好きなひとはいるの?」
強いのは、母親だと自覚したからだろうか。誘われるように、諭されるように、ヴィランスの唇が開かれる。
「………わたしがすきなのは―――」



 例えこの先にあるのが地獄だとしても。



 すべてが許容され、浄化されたような気分だった。神様とやらはこんな天使らしい天使を堕としてしまうのだから、本当にこの世界は理不尽だ。
「わたしがすきなのは、あなたよ」
そう言った瞬間の、スィハーザの表情をきっとヴィランスは忘れることが出来ないだろう。
「………貴方が好きよ、スィハーザ」
「やっと、」
スィハーザが笑う。
「やっと言ってくれたわね」
臆病者、と笑う彼女はまるで少女のようで、恍惚とした光が流れ込んでくる。
 病のようだ、と思った。身体中が痛くて、きっとこのまま死んでいくのが運命なのに。そしてきっと、死んだあともまだ、二人を蝕むものはあるだろうけれど。心は、
「ねえ、ヴィラ」
「なあに、スィー」
一欠片も痛くない。
「生きていれば生きているほど互いに傷付け合うわ」
「うん」
スィハーザの羽根が少し崩れるのが見えた。
 時間は有限だ。それを知っていたのに、今更残酷だ、などと思うなんて。
「神様は何を思ってこんな違うものを作ったのかしらね」
一緒にいれば死ぬ、だなんて。物語としてもベタもベタよ、とスィハーザの表情は穏やかだ。
「私はね、何も考えてなかったんだと思うの」
「その心は」
「交換できるようなものに重要性があるとは思えないから」
「なるほどね」
頷く。
 ヴィランスはかねてから聞きたかったことを、やっとそこで言葉にする決意をした。
「スィー、何故世界は分かれているんだと思う?」
スィハーザを初めて見た時、ヴィランスは世界を思い浮かべた。真っ白な自分と、真っ黒な彼女。ああ、此処に世界があるとそう思ったのだ。濁らない、交じらない、絶対として対立するもの。それを目の前に突き付けられたのだと思った。
 スィハーザは何をそんなこと、とでも言うように目を細める。
「さあ、と前なら答えたでしょうけれど、」
「今は違うの?」
「ええ」
 伸ばされる手。崩れる羽根。
「貴方と、生きるためだったのよ」
このままどちらがどちらか分からなくなっていくのかもしれない、と思ったらそれもまた一つ、幸せなのだろう、と思った。
 空は晴れ渡っていた。
 とても綺麗な青空の下、白と黒のコントラストは永遠に続いていくのだろう、とそう思えた。そう思えたからもう、良かった。
20160525