一つ目の三日月の夜に 

 僕が此処に来てから一体何年経ったのだろう。もしかしたらそんなに経っていないのかもしれないし、何百年とかが経っているのかもしれない。どっちにしろ此処には時計もないし時間もあべこべにに流れるし、僕だってお腹が空いたりなんだりすることもないしでどれくらい時間が流れたかなんてまったくもって分からない。眠ることもしないでぼうっとしているだけなんて普通気が狂うはずなのに、結局僕は気が狂わないまま結構な時間を過ごしてしまったような気がする。狂ってしまった方が良かったのかもしれないけれど、それすら今の僕には分からない。僕の中に残っているのは此処へ来るまでの微妙な記憶と、名前だか苗字だか分からないナナセという言葉だけ。僕の名前かどうかも分からないけれど、どうにも名前がないと座りが悪いような気がするから僕はナナセと名乗っている。と言っても名乗るのなんてこれが初めてなのだけれど。年は此処に来る前は十二歳だったけど、今は分からない。十七歳くらいに見えると貴方が言うならそれで良いと思う。
 さて、此処に来るまでの微妙な記憶について話そうか。と言っても、本当に短い記憶だ。
 ふと気付いた僕は雲にのっていた。一人だけで、辺りは見回しても見回しても真っ白な雲ばっかり。陰影は分かるくらいで距離感も曖昧で、僕は立ち上がることも出来なかった。その時に何も分からないことを知った。僕は一体何者でどうしてこんな雲に乗っているのか? まったくもって分からない。所謂記憶喪失とかいうやつかと思ったけれども、僕には笑い飛ばす余裕もなかった。そもそも記憶喪失になったからと言って雲に乗っている理由の説明にはならない。記憶がないながらも雲に乗っているのがおかしいことだという判断は出来た。でも、それだけだった。雲は行き先を知っているかのようにどんどん流れていって、僕はただ座っていることしか出来なかった。少しずつ違っていようともおんなじような風景が流れていくだけでは感覚は狂っていく、此処と同じように。だからどれくらい雲に乗っていたのかは分からない。でも暫くすると前方に闇が見えて、僕は突然不安になった。雲に乗っていても感じなかった不安だった。でも雲は僕の不安なんて感じ取ってはくれないので、そのまま止まらずに進んでいく。
 ぶつかる、闇に対してそんなことを思うのはおかしかったかもしれないけれど、僕はそう思って目を瞑った。思わずだった。多分雲はそのまま闇に突入した。ぶつかった感覚はなくて、僕が恐る恐る目を開けてみたら今度は真っ黒な世界が広がっていた。今度は遠くの景色も何もなかった。ただ只管に真っ黒な世界。なんとなくもやもやしたものがある、というのがやっと分かるくらいに真っ黒な世界。僕はもう訳が分からなくなってしまっていた。
「もう嫌だ」
多分僕は口に出した。
「逃げ出したい」
「それは無理なの」
 独り言だったはずのそれに誰かの声が答えて、それに応じるように闇が散った。明るいところ。見上げると月があった。奇麗な三日月。それが三つ。その三つの光が直接降り注ぐところに、女の人が座っていた。上手に足を組むことの出来ていない女の人だった。
「君は―――死んだから」
勿論、僕には理解が出来なかった。いや、理解したくなかったんだと思う。
「まあ本当は消えたんだけど…向こうじゃあ死んだことになってるから、一緒よね」
こういうの、困るのよね、と女の人は直角に首を傾げてみせたけれど、僕にはその奇妙な仕草よりも意味の分からないことを言っている、という印象の方が強かった。死んでしまった、なんて。僕には記憶がないのにまさか、という気持ちがあった。でもそれよりもずっと大きく、納得が幅を占めていた。
 僕は、死んだ。
 死んでしまった。
 そう思うと雲に乗ったこともよく分からない道を通ってきたことも、三日月が三つあることもこの女の人の仕草がおかしいことにも、全部に説明がつくような気がした。
「躯のないものの世界の入り口」
女の人が何かを指差した。何もないように僕には見えた。
「君は、入る?」
 少しだけ躊躇ってから、僕はゆっくりと頷いた。記憶もないのだから其処に留まる理由も見当たらなかったはずなのに、僕はそれにひどく時間を掛けたように思う。今思うと最後の抵抗だったのかもしれない。けれどもここで首を振ったら女の人は悲しむような気がして、結局僕の行動を後押ししたのはそれだった。
「そう」
女の人は気だるげに頷いて何もないところに手を突っ込んだ。そしてその中にあったらしい扉を開ける。ぎい、と音のしたその先は真っ暗だった。
「じゃあ、どうぞ」
僕は足を踏み出す。ゆっくり入っていく。
「じゃあね」
僕が全部浸かったところで、女の人は扉を閉めた。
 扉が閉まるとその先は真っ白な世界へと転換した。それと同時に膝の力がかくん、と抜けた。記憶と言えるほど鮮明ではないけれど、多くの顔が過ぎっていって、これは残らず敵なのだと分かった。僕は敵たちの何かに使われるのだろうと言うことだけはおぼろげながら理解して、それに対抗する力を持たないことを嘆いた。ただ分かるのはあの女の人は敵でも味方でもなかったんだろうということ。それだけが、多分、僕にとっては救いだった。此処は多分天国じゃあない、だから貴方がやって来るまで誰も来なかった。だからと言って地獄という訳でもない。僕は死んだ≠ニしか言えない状態なんだろうけれども、だからと言って生きていない訳でもないんだろう。意味が分からないと思うけれど、これが暇で暇で暇だった僕の出した結論。出してもどうにもならない結論。貴方の顔も見えないから言えてしまえる馬鹿な結論。ああ、この話ももう終わりか。もしも今度があるのなら、貴方に僕の名前を教えて欲しいな。

***

 天使の夜、と呼ばれる現象があった。それを見た者は死ぬという、都市伝説。
 でも僕は五年前、兄と一緒にそれを見た。

死者は語る 


 世界に傍観者がいるなんて言い出すと貴方はきっとまた何をファンタジーな、と言い出すのかもしれない。でも貴方のいる世界―――基世(きせ)と呼ばれている場所にいられなくなってしまう人間もいるのだと、僕は言わなければならない。何を隠そう、僕がその基世にはいられなくなった人間の一人なのだから。と言っても、本当に死んだ訳じゃない。死んだことにしておいた方が世界から脱出するのに都合が良かったし、今は年上のお姉さんの家でご厄介になっている―――なんて冗談を言う余裕だってある。ちょっと淋音さんのことを年上のお姉さん、なんて可愛らしい言葉で表現出来るほど僕は強くはないので。まあ、命の恩人ではあるので、そこのところは感謝感謝で感激はまあ違うから置いておいても雨あられという感じにはなるのだけれど。本当は全部がハッピーエンドになれば良いなあ、と思っているけれど、もしかしたらだめかもしれない。でも僕たちはそれでも生きたいから戦う、ただそれだけのこと。
 そのためには世界の傍観者である貴方を捕まえて僕の話を無理にでも聞かせることが重要なんだとか。僕もあまり話し相手がいないから、こういう仕事はとても嬉しい。金髪金眼でびっくりしてるだろうけれど、僕も貴方と同じ日本人だから安心してね。僕、ちゃんと日本語喋れるよ。
 そういう訳で自分語りのターンに入るのだけれども、僕が十二歳の時、上記の都市伝説に出会った。双子の兄と一緒に。兄はとても強くてかっこよくて、僕はいつか兄みたいになりたくて、そのためには彼をまず兄としてだけ見るのではいけないと思って名前で呼んでいた。
―――明羅(あきら)。
その名前を、もう五年も呼べていないのは悲しいことだけれど。まだその時は僕も普通の色彩で、僕たちはよく間違えられていた。僕は明羅に間違えられるのが少し誇らしくて、少しだけ見る目のない周りの人間を憎んだ。
 さて、都市伝説なんて知っている人しか知らないと思うから説明をするけど、天使の夜っていうのはその名の通り、天使が舞っている夜のこと、って言われていた。まあでも見た人は死ぬ、なんて言われている系の話が何で出回ってるかって思うよね、僕も思っていた。でも天使の夜って本当にあったんだよ。何せ今此処に生存者がいるので。見たら必ず死んでしまうからただの狂人の戯言、と受け取られていた部分もあるだろうし、最後にそんなことを言った人間が出たのも当時から数えて二十年くらい前のことだったらしいので、御伽噺に片足を突っ込んでいたのかもしれない。もう、天使の夜なんて現れないだろう、出てもきっと暇を持て余した狂人なんだろう、と。そんなふうに思っていた人間もいたのかもしれない。今となってはどうでも良い話だけれど、こういうのを挟んだ方がちょっとくらいは気が紛れるだろう。だってこの先普通に暗いから。
 でもある日、塾の帰りだった。僕と明羅はコンビニで肉まんを買って、それを半分ずつ分けながら家路を辿っていた。そして、その湯気が冬の空に消えていかないうちに、出会ってしまった。
 天使の夜に。
 天使たちは都市伝説の通りにとても美しいものだった。ただ、僕たちの想像と違ったのはその翼。羽根ではなく、硝子で出来たように薄っぺらだった。遠くにいるのに、僕たちにはそれが傷だらけだって分かった。
―――我を見し者よ
―――彼(か)の者を奪わせよ
―――無限の輪廻
―――不滅の糸を断ち切る
僕に聞き取れたのはこんなところ。天使たちの唄が始まって、それはひどく耳に残っている。夜空に響く美しい歌声…を想像するだろ? でも違う。黒板を引っ掻いたようなひどい音だった。声というより音、だったのかもしれない。でも言葉が分かったから、声、と認識してしまっただけで。時々夢に出てくるんだ、あの声も唄も。判然としないのに、不安ばかり与えていく。
 僕たちだって馬鹿じゃない。明羅が先に我に返って僕の耳を塞いでから逃げるぞ! と叫んだ。僕は必死で明羅について走って逃げた。でもただ耳の奥で、唄が消えなかった。
 彼の者を奪わせよ。
 僕の中でそのフレーズだけがひどく沈殿していた。都市伝説では、天使たちが現れるのは偶然で、通り魔的なものだと言われていた。でもその唄を信じるなら、偶然ではないということになる。僕も、明羅も確信していた。言葉なんて交わさなくても分かった。天使たちは最初から何か目的があって現れるのだと。それは人間であるのだと。そして、今回その目的は、僕たちか、僕たちのどちらかであること。
「お前だけは絶対に守ってやるから安心しろ」
同じくらいに恐ろしかっただろうに、明羅はそう言った。あの頃の僕は今よりもずっと泣き虫でね。いや、言ってしまえば天使の夜に遭遇してしまったから、泣いてる場合ではなくなってしまった、というのが正しいのだろうけれど。
 明羅は小さい頃やってくれたように僕の頭を撫でて、それからその夜は久しぶりに一緒のベッドで眠った。
 事態が展開するのはもう数日後の夜のこと。さて寝ようか、と言ったところで家中の硝子が割れ始めた。バリン! バリン! バリン! とその音がどんどん近付いてくる中で、僕たちに出来るのは戸棚の影で小さくなることだった。連続していた音がやんだのも束の間、次にしたのはガッ! ガッ! という金属を蹴り飛ばすような音だった。
 影から僕たちは少しだけ覗いてみて、すぐに後悔をした。蹴られているのは窓の枠だった。僕たちの家には飾りの格子がついていてね、外から入るのには邪魔だったんだよ。襲撃者はそれを蹴っていた。それはそれは美しい足だったよ。その前に見た天使の足と同じように。でも人間と同じ形だ、とも思った。だから僕は金属バッドを握って、待機していた。
 ガシャン! と一斉に同じ音がして、幾つかあったはずの窓が全部破られたことを知った。僕はバッドを握りしめながら、明羅より前に出ようとして、それから一度ぎゅっと強く抱き締められた。
「絶対に守ってやるから」
その言葉だけは忘れられない。今でも思い出せるし、夢を見たあとはいつもいつも蘇ってくれる。
 その瞬間を天使は逃さなかった。ぐいっと明羅が引っ張られて宙に浮かんで、僕は必死でそれに縋って。バッドを持った意味なんてなくて多分どっかに転がっていったんじゃないかな。十二歳の判断力なんてそんなもの、と言われてしまえばそうだけど、やっぱりもっと何か出来たことがあったんじゃないかと思うんだよ。
「明羅!」
僕が叫んだのと同時に辺りは光に包まれて、それで僕は意識を失った。
 目覚めたら全然知らない場所で、もう基世じゃあなかった。淋音さんは大した説明をくれなかったけれど、僕たちには力≠ェあって魔物に狙われていたということだけは分かった。その力は魔物が世界を手にすることが可能なほど大きなものなのだと。魔物に力が渡ったらどうなるのか聞いてみたことはあるけれど、要領の得ない答えしかもらえなかった。人によっては世界が滅ぶ、でも人によっては世界は滅ばない。人間はどっちかに所属しているけど、大抵の人間はそれを知らない。僕も明羅も、ついでに淋音さんたちも世界が滅ぶ方の人間だった。だからレジスタンスみたいな活動をしているし、僕も助けてもらえた。明羅は間に合わなかったらしくて、連れて行かれてしまったらしいけれど。死んではいないはず、という淋音さんの言葉を信じている。信じるしか、今はないから。修行と言われたメニューをこなして魔物の力にならないように、ついでに明羅を助けに行けるようにする。それが僕の今のところの目標。
 あ、そうそう、そういうこと。魔物の手下が天使って呼ばれてるの。笑っちゃうよね。でも別に天使が天使って名乗った訳じゃないからそうやって名前をつけた人間が悪いんだろうな。もし貴方にも力があったら狙われるよ、とか言おうと思っていたけれど、まあきっと、貴方は滅ばない方の人間なんだろうな。



20190305