部室は夕日で赤かった。
秋の日はつるべ落とし。
真っ暗になるのももうすぐだろう。
そろそろ、電気をつけなくては。立ち上がろうとしたところで、
ボロボロの扉が、ギィ、と苦しそうに音を立てた。

「よぉーっす」
良く知った顔がひょっこり出てくる。
「ちょうど良いや。電気つけて」
「あ、うん」
パチリ、と小さな音がして、電気がついた。
部室が一気に明るくなる。
「あんた一人?」
訊ねながら入ってくるソイツに、
「あぁ」
小さく頷く。

ソプラノボイスに、制服はスカート。
律儀に校則を守った膝下。
それでも、俺の中では「生物学上、女」としか、認識されていない。
つまりは、ソイツが俺にとって、「女」として見ていない友人であるということ。
「ふふふん」
来て早々はな唄を歌い出すソイツに、
「機嫌良いな」
問うてみれば、
「そりゃ美人で可愛い子とお話出来たからねー」
その理由を教えてくれた。

コイツは無類の可愛いもの好きだ。
物から人まで、可愛いものなら何でも。
時々ひどく真剣に、「この子はあたしの嫁だから」なんて言い出すことがあるから、
きっと、と言うか間違いなく、電波だ。
「ま、何を隠そう、あんたの彼女さんなんだけど」
ソイツの口から出た、「さっきまでの話し相手」に、俺の顔が凍りついた。

そんな小さな反応も、ソイツは見逃さない。
何でか分からないが、人の感情の起伏に関してはひどく敏感な奴だ。
…自分のにはほとんど無関心なくせして。
「喧嘩でもしたん?」
探るような視線から逃れるように俯いて、
「当たり」
ぼそっと呟く。
「はー。だから、彼女さんヘコんでたのか」
納得したように頷いた。
「つか、別れるかも」
「ふーん…って、はァ!?」
二度目は、納得しなかった。
「何で!?」
最大限に目を見開いて、ソイツが詰め寄ってくる。
元々細くて全然でかくならないんだから、そんなに頑張らなくても良いのに。
「何でって、もう、アイツの気持ちが分かんねェんだよ…」

喧嘩の始まりは、俺にある。
俺が、嫉妬したから。
彼女が同じクラスの男子に、手作りのお菓子をあげているのを、見てしまったから。
普通ならそれくらいのことでは喧嘩にまで至らないのだが、
嫉妬から彼女を責めて、それから、
「弥生の気持ちが分かんない!!」
と叫ばれてから、今に至る。

「気持ちが分かんないって…らしくないこと言うじゃん」
「同じこと言われたの」
それは俺の台詞だって。
これが、彼女に叫ばれた時の、俺の心情。

「気持ちかー」
ソイツは少し天井を仰いで呟くと、
「人の気持ちって、分かんないのが普通じゃないの?」
ふっと、視線を戻してきた。

目が合う。

黒くて、やけに瞳孔の大きい瞳だった。
まるで、全部、見透かされているような気分になる。

「人間は元々、論理的な思考では追っつかない生物だよ?
心理学とか何とか言われても、結局、ね」
すぐに視線を逸らして、ソイツは話し始めた。
「良くテレビとかで独裁者の深層心理とかやってんじゃねぇか」
「それは分かってるふりに過ぎないよ」
笑った。
「意外だなぁ。
君はあたしと同じ考えだと思ってたのに」
同じ考え。
確かに、テレビを見ながら、嘘くせぇと思ったことはある。
「…根拠は?」
「ないよ」
キッパリと言い切られる。
「んー、でも、敢えて言うなら…目、かな」
「目?」
俺は首を傾げた。
コイツと目が合ったことなんて、数える程しかないはずだ。
それも、片手で足りるくらい。
「あ、目なんて合わせたことないって思ったでしょ?」
大当たり。
「何で分かったんだよ」
「眉間にすごい皺よってた。怪訝な顔って奴」
それだけで分かってしまうなら、大したものだと思う。
それに、
「それって、なんか論理的に考えてねぇ?」
「え?」
話の流れと、表情を照らし合わせて思考を読むなんて、
論理的以外の何ものでもないと思ったが。
「…違うね」
少し考えてから、ソイツは言った。
「あたしが分かったのは、まぁ…君だから、ってとこでしょ。
初対面の人の考えなんて、やっぱり分からないし、隠してる人なら尚更。
君とはとりあえず、部活で毎日会ってるし、ね」
クラスが一緒だったらもうちょっと分かるかもしれないけど、と続ける。
「それに、」
一旦言葉が切られた。
迷うように視線を夕日に奔らせてから、眩しそうに目を細める。
「君は、あたしが今、何を考えているか、分からないでしょ?」

目が合った。今度はしっかりと。

揺れている。

その揺れが何の意味を持つのか分からなくて、俺は困った顔をした。
「ほら、分からなかった」
ソイツは数回瞬くと、視線をずらした。
ああ、そう言えば、人と目を合わすのが苦手だって言ってたような気がする。
その所為で揺れていたのだろうか。

そう思ったけれど、もうその話題は終わっていた。
ぶり返させるのは、何か違うような気がした。

「そういう訳で、人間の思考は論理では解決できないものなの。
ましてや、恋なんてなおさら」
ソイツは立ち上がった。
窓の方へ近付いていく。
「恋愛は精神病の一種、って説もあるし、ね。
あたしもその通りだと思う」
「恋愛は、馬鹿らしいと?」
「そういう訳じゃない」
窓を開けて、ひょい、と身を乗り出した。
飛び降りる気ではないのは十分に分かっている。
良くこうして外を見ているのを、知っているから。

何を見ていたのか、ソイツは満足したように身体を元の位置に戻すと、窓を閉めた。
「馬鹿らしいと思っていたら、あたしははなから恋愛なんてしないし、
君の恋愛相談にものってないしょ」
いつのまに恋愛相談になっていたのだろう。
ただ単に、芋づる式話しているだけのような気がする。
「人が人に対して抱く感情は、いろんな種類があると思う。
その中でも恋愛感情は複雑怪奇で、更に、人によっても解釈が細々と分かれるやな分野。
でもさ、」
振り向いたソイツは、夕日に照らされている。
…赤い。
「大切なのは、どう思っているかでしょ?」
とくん、という、鼓動の音が聞こえたような気がした。
「相手に対する思いを、どう処理するか。
ぶつけるか、隠しとくか、はたまた自己満足で終わらせるか、相手を思いやるか…。
行動の仕方なんて人それぞれだし、それは、表現もおんなじ」

彼女を好きになってまもない頃、さりげなく近付いてみたりした。
恥ずかしかったのと、それでも傍に居てみたいと思ったのと、
何となく、気持ちがばれてしまったら、一緒に居られなくなるような気がしてしまって。
結局は彼女も同じ気持ちだったと分かって、付き合うことになったのだけれど。
「話を聞く限り、君は大分優しいと思うけれど?
いつでも彼女のことを一番に考えてる、って」
どこからの情報だ。
「今も、それは変わらないんじゃないかな。
優しい、っていうのが、君の本質だと、あたしは思うよ」
普通なら赤面するような台詞でも、コイツに言われたのでは拍子抜けしてしまう。
いつもぼうっとしているようで、意外に人を見ているんだな、と俺は思った。

けれども、やっぱり、なんとなく気恥ずかしくなって、話題を変えようとしてみた。
「お前はどうなの、最近」
俺の話ではなく、ソイツの話に変換。
「どうって、進展も後退もないけど?」
それは、まだ好きな人が変わっていないという、遠回しな台詞。
コイツの好きな人が誰かまでは知らないが、
彼女が居ると分かって、ふられたも同然だって、言っていたのは知っている。
「彼女居るって分かった、とかって言ってなかったっけ?」
「うん、言った」
何でもないことのように返すソイツ。
「まだ変わってない訳?」
そんな変わらない―――余裕にも見える表情を崩したい、
なんて思いながら聞く俺は、Sなのかもしれない。
もっとも、SMというのは性的嗜好の分類だから、
性格には適応できないのかもしれないけれど。
「当たり前でしょ」
「って」
デコピンをくらって額を押さえる俺に、
「一度ふられたくらいで諦めるのなら、最初から好きになんてならないって」
さも当然のように言い放つ。

「それにね、あたしは、好きな人が幸せ…って言うとなんか言い過ぎな感じするけど…
笑っててくれれば、それで良い訳」
正直、驚いた。
「付き合ったりとかは…」
「別に良い。
というか、あたしにとって、好き、だから付き合う、っていう発想は難しいみたいで。
要するに、ビコーズじゃ繋げないの」
今の俺は、きっと呆れた顔をしているんだろう。
「何だそりゃ…」
「さっき言ったでしょ」
「って」
二度目のデコピン襲来。
「恋愛は複雑怪奇で、人によって細々と考え方も受け取り方も異なるの」
目の前のいつもはへらへらしているソイツが、今だけはひどく、できた人間に見えた。

「君は彼女のことをどう思ってるの?
上辺の怒りではなく、もっと根本を考えてみなよ」
ソイツは笑った。
見透かされている。
彼女は俺にとって―――かけがえのない人、だ。
「もう揺るがない?」
俺は顔を上げる。
言葉は発しない。
それで通じるはずだから。
「ん、それなら良いんだ」



「あ。
忘れかけてたけど、あんたに伝言あるんだった」
ぽん、と手を叩いて、わざとらしい、あたかも今思い出した、というような仕種。
「校門で待ってるって」
「誰が」
「あんたの可愛い彼女が」
思わず打っ叩く。
この時ばかりは、身長が高かったことに感謝した。
とても叩きやすい。

もちろん、この一撃に込めたのは、
「遅い!!」
時計を見る。
既に時計の針は六時を指そうとしていて、辺りは真っ暗。
「お前が来てから何分経ったと思ってる!?」
「三十分くらい」
しれっとした悪気のない顔に、苛立ちにも似た感覚を覚える。
さっき窓から身を乗り出して見ていたのは、俺の彼女か!
まだ待っているかどうか、確かめていたんだ。
もう一発くらい殴ってやっても良い気がする。

だけど。
「片付けやっとくから、早く行きなよ」
「ったり前だ!」
鞄を肩に引っかけ、部室を飛び出す。
窓からの確認はしない。
どうせ真っ暗で、校門の辺りなんて、とてもじゃないけど見えないから。

「―――…」
もしも三十分前、アイツが伝言を伝えていたら、俺は行っただろうか。
寒空の下、彼女を放って、さっさと姿を消してしまったのでは?

そう考えると、アイツの手の平の上で、踊らされていたような気さえする。

「!」
校門に人影。
「あ…」
その唇が、何か紡ぐ前に、
「―――ごめん」
それが、遅くなったことに関してなのか、
今まで怒っていたことに関してなのかは、言わない。
強いて言うのなら、どっちの意味も。
「…良いよ。
来てくれないかもって、思ってたから」
鼻の頭を少し赤くして、電灯の下で笑う彼女が愛おしくて。
「一緒に帰ろうか」
久々に、手を繋ぐ。

「私って、残酷よね」
「え?」
「ううん、何でもない」



目の端で、部室の灯りが消えた。





20120517