頭脳明晰。
森野紅絹(もりのもみ)を表すのに、これほど的確な言葉はないだろう。
それ以外で言おうとすると若干のネガティヴさから逃げられないというのもある。
容姿、普通。
表情、皆無。
コミュニケーション能力、ほぼゼロ。
そんな彼女は教室で密やかに、
“コケシ”などと呼ばれていたが―――紅絹が気にする様子は一切なかった。
そもそも他人のことなどそう興味のあることではないのだ。

そんな紅絹にも、他人を気にせざるような、そんな出来事が起こる。



戦争はいつだって突然に
森野紅絹は別に、意識して無表情でいる訳ではない。 元々感情の起伏の少ない彼女にとって、それは日常だった。 笑いもせず、怒りもせず。 ただ自分の意見を淡々と述べるだけの彼女はとっつきにくく、 高校に入った今でも彼女の周りに人はいない。 そうして敬遠されるうちについたあだ名が“コケシ”であり、 一部の人間は本人の前でも堂々と呼ぶ。 しかし彼女は大して反応を見せない。 “コケシ”というのは彼女の名前ではなく、 けれどもだからと言ってそう怒るようなことでもないと思っていたから。 「あはは、六限目寝てたわ」 後ろの席で声が上がる。 ホームルームも済んで、あとは帰るだけ。 「コケシィ、ノート見せてよ」 鞄を持ち上げたところで、そう、声を掛けられた。 振り返る。 膝上十五センチを優に超えているだろうスカートが、寒そうだと思った。 今はもう冬である。 履いているのはルーズソックスで、 それが流行ったのは結構前のことではないかと首を傾げそうになった。 幾ら紅絹でもテレビくらいは見る。 それとも、また流行り出したのだろうか。 流行はぐるぐる回っていると言うから。 スカートの長さ然り。 「テスト近いじゃん。寝ちゃってさーお前、どーせ起きてたんでしょ?」 面倒だな、と思った。 思ったが紅絹のその頬はひどく凝り固まっていて、それを表現する術を持たない。 「ねーえ」 名も知らぬクラスメイトが少し屈んでみせる度に、 その意図的に外された第二ボタンからない胸がちらちらと見える。 そういうのはもっと、と幼馴染の顔が浮かんできたところでその想像を打ち消す。 あれは例外だ。例外なのだ。 「用があるから無理だ。 家で予習復習しないとならないから貸すことも出来ない」 悪いな、と付け足すことも忘れなかった。 とりあえず言わないよりはマシだ、なんて言っていたのは幼馴染である。 くるりと回れ右をして教室を出て行く。 後ろから、なにあれ、と毒づいた声が聞こえてきた。 面倒だな、と思う。 「めんどうだ…」 思わず、声に出してしまった。 「ほんと、そうだよね」 まさか、賛同が返って来るとも思わずに。 人の少なくない廊下。 しかし紅絹の真後ろからしたその声は、誰にあてたでもない言葉に対する確かな返答だった。 ゆっくりと、振り返る。 後ろにいたのは少年…名札の色からして同じ学年、 高校二年生である彼に、少年というのは少し幼いかもしれなかったが。 「………誰だ」 「あっやっぱり覚えられてなかった」 見たことがある気がする、というのは話し掛けられたことによる勘違いではなかったらしい。 基本的に、紅絹の中では人の顔と名前は一致しない。 一致するのは歴史上の人物や担任、かかりつけの医者、それくらい。 友達なんて、覚えるほどいないから労力などなかった訳で。 「オレは原田絢太(はらだけんた)。二年七組二十三番」 どうやら同じクラスだったらしい。 原田絢太はにへら、と笑った。 紅絹の見ようによっては睨んでいるように見えるだろう、 眼鏡越しのその眼光をものともせずに。 「何か用だろうか」 「用、か」 少し、考えるように上の方へと視線を走らせる。 その様子を見て、ああ用なんてないのだな、と踵を返そうとした。 あ、待って待って、と声を上げられて止まる。 周りの目が痛かった。 「あっえっと、じゃあオレが、お前を気に入ったから!」 何様だ。 息も吐かずに、今度こそ踵を返した。 「待っててば!!」 ぐるり、回り込まれる。 「気に入ったって言い方が気に障ったなら謝る。 あのさ、えっとさ、これは多分恋なんじゃないんだけど、オレと、付き合ってみない!?」 「はぁ?」 思わず声が出た。 周りの目線がびしばしと突き刺さる。 あれ、王子じゃない。そんな女子生徒の声。 ああ、そういえばこの学校、王子と呼ばれる人気者がいたような気がする。 それが目の前の彼だと言うのか、とんでもない。 「だから、オレと恋人になってください」 「頭は大丈夫か」 「大丈夫だよ。なんでそう思うの」 人の、噂を知らない訳でもないだろうに。 「あだ名の、所為?」 人の考えを見透かすな。 何で王子がコケシに、という声が聞こえてきた。 変われるものなら変わってやりたい。 そこの女子、私は用があるんだ―――世界で一番めんどくさいという顔をしたいのに、 それは外へと出て行かない。 「オレも、いろいろ聞いてるけどさ、紅絹はそんなんじゃないだろ」 はやくも名前を呼び捨てとは恐れいった。 面白おかしくなっている紅絹の心は、やはり外には出て行かない。 感情の起伏が少ないと言った。 言ったがしかし、ないという訳ではない。 ただ普段が少なくそう表情を作ることにも慣れていない表情筋が、 珍しく起伏の多くなった瞬間にだけ仕事をしてくれるかと言うと、そうでもない。 それに紅絹は、 「紅絹は、“笑わない”じゃなくて、“笑えない”んだろ」 息が、止まるかと思った。 内緒の話をするように、紅絹にしか聞こえないように。 耳元で、小さな声。 そんな馬鹿みたいな気遣い。 「なん、で」 「オレ、ずっと紅絹のこと見てたから」 一年の時も同じクラスだったんだよ、と絢太は距離を取る。 周りの目はもう気にならなくなっていた。 気にする余裕がなくなっていた。 「オレのこと、すっごく嫌いじゃないって言うんなら、オレにチャンスをちょうだいよ」 「チャンス?」 「うん。オレが、紅絹を惚れさせるから。 どうしても嫌いって訳じゃなきゃ、アタックとか、デートとか、さしてよ。 変なこととか…紅絹が嫌がることは、しないから。おためし期間…みたいな」 覗き込まれることは不快でしかないだろうと思っていたのに、 こんな子犬のような目をされてしまえば。 うっかり、首が縦に動いた。 自分の中にもそういう感情は残っていたのだな、 などと感動する紅絹の傍ら、やったー!と絢太が声を上げる。 かくして、戦争の火蓋は切って落とされたのである。
20141212