猩猩緋と薔薇と魔獣
孤独の深海 英知。 なぁに、ウタカタ。 どうして君は僕を創った? どうして、か。 最初は学校生活をしやすくするために、このままの自分ではいけないと思ったんだ。 でもその時はどちらかと言えば演技で、君には確たる自我はなかった。 そうだな。 一年生の冬、千早が喋らなくなってしまって、僕は演技だけじゃ追いつかなくなったんだ。 守りたかった。 僕は―――守れているか? 充分だとは言い難いけど、僕もこれ以上良い状態を思い付かないよ。 難しい問題だね。 でも君のおかげで千早の辛さは軽減出来ていると信じてるよ。 そうか、それなら良かった。 そういえば、千早はどうして僕たちを区別しようとするんだろう? 僕が少し社交的になったのが君で、君が少し閉じこもったのが僕、そんなに違いはあるのかな? サテツには、大きな違いなんだろう。 そう、なのかな。 僕には分からないや。 好きな人間の違いは、とても目についてしまうんだろう。 幼馴染とは少し厄介だ。
カナリアの鳴く頃に
殺戮、或いは何処にもない劣等 自分の手を血で濡らすなんてことは永らくしていない。 けれどもこの瞳には、両手が赤くあかく染まっていく様が映るのだ。 そんな時、思い浮かぶのは引き取った子供。 一般人だったとは思えない程の成長ぶりで、もう任務も一人でこなすようになっていた。 あの子供をどうして生かしたのか、本当は良く分かっていなかった。 興味があったのは嘘じゃない、だがそれだけでもない。 仮にも親を殺された以上、いつかあの子供は俺を殺しにくるかもしれない。 それを回避するには先に殺してしまうか、殺せないようにしてしまえばいいだけだ。 …けれど、後者が出来る気はしなかった。 俺はアヤメを超えたことなどなかったのだから。 アヤメがあの子に与えた全てを凌駕する程のものを、あの子に与えられるはずがない。 それでも俺は願うのだ。 アヤメを越すことが出来る日が来ることを。
あけぼのに緑は夢を見る
星の海で完成する凶器 病室の窓から空を見上げる。 星を読んで時期をはかるのも呪術師の仕事だ。 それは記憶を失った今でも何故か覚えていた。 「…そう、か」 声が漏れる。 やっぱり、その言葉が浮かんで来る。 私の記憶はもう、戻っている。 ちゃんと掴めていないだけ。 「決めないとなぁ」 自分の在り方を、彼女への接し方を。 悩んで選んで、それを後悔する日が来ないように。 「ごめんね、まだ…悩ませて…」 手放すにしても攫うにしても、そうとうの決断力が必要なのだ。 まだ、ぬるま湯に浸からせていて。
白狐の黎明堂
善悪亡き戦場 部屋の角で配給を齧る同僚を見付けてノーマンは声を掛けた。 窶れた顔をした彼に断ってから隣に座る。 「…まだ続いてるのか」 「ああ」 何でもないことのように頷く頭を撫でる。 「…ごめんな」 「何でエイルホフが謝るんだよ」 「何も出来ないから」 はぁ、と同僚はため息を吐いて笑う。 「そんなことねぇよ。 お前が声を掛けてくれるだけで俺は嬉しいし、 それに、お前は嫌がるかもしれないけど、お前の名前に怯えるやつもいる。 そのおかげで俺は余計な誹りを受けないですんでるんだよ」 にこりとする笑顔から、生気は消えていなくて安堵する。 「もちろん、お前がどんな家の出だろうと、俺は声掛けてくれるだけで嬉しいけどな」 武家貴族であるエイルホフ家で良かった、そんかことを思ったのは初めてだった。 「…俺、生まれてきて良かった」 「突然何だよ」 「何でもない」 生まれてこなければお前を守ることも出来なかった。 そう言ったらこの同僚はきっと照れてしまうから、黙っておく。
白狐の黎明堂
生かすも殺すも毒舌次第 自分でも驚く程優しげな声が出て、あ、ちょっと気持ち悪い、なんて思った。 けれどそれとは裏腹に舌を滑り落ちるのは、あまりに鋭利な毒で、 それを真っ向から注がれたサンプルからはまた一段と表情が消える。 目はあっているのに何処か虚ろな瞳に、もう長くないと感じた。 正しく栄養を補給してやっても、消えていく命もある。 永らえるだけの力を与えないでいれば、比較にならないスピードで枯れ落ちる。 人間なんて、そんなものだ。 心を科学的に証明することは、何ら難しいことではない。
白狐の黎明堂
あいつの殺意と僕を抱いて眠ってくれ 「ジュン、私あの人に殺されるわね」 ふふ、と笑って首に手を回すその人の笑顔はひどく美しかった。 「その時は一緒に死ぬよ」 「あら、助けてはくれないのね」 「兄さんに勝つのは無理そうだからな」 双方冷静に戦うのなら、その結果は分からない。 けれど感情の起伏の激しい兄が激昂してかかって来るとなると、勝ち目はないだろう。 「あの人、そこはものすごく残念だものね」 同じことを考えていたのか、くすくすと笑い声が漏れた。 「ねぇ、あのね、ジュン」 「何だい?」 「子供が出来たわ」 言葉を失った。 一瞬でからからに乾いた口内を舌で湿らせ、ようやく掻き集めた唾を飲む。 「ええと…それは…おめでとう。兄さんの?」 「さぁ。分からない」 再び言葉を失った。 「あの人の子かしらね?貴方の子かしらね?」 接吻けを落とされる。 「それとも、生むなという? 私と貴方の関係を全部あの人に喋って、どっちか分からないから堕ろすと言う?」 「…堕ろすつもりなんかないくせに」 あら、と口が開く。 心底驚いたような表情だった。 「何故分かったの?」 「勘だよ」 本当に勘だった。 ただ何となく、この人ならばそんなことはしないのだろうと思ったのだ。 「なんだ、勘なの。 でもアタリよ。 私、この子を堕ろすつもりなんかこれっぽっちもないわ。 ひどい女だと思うけど、貴方たちを二人とも愛してるから、どちらの子でも良いの」 ああ、本当にひどい人だ。 「だから、この子を殺せと言うのなら、私は姿を消すわ」 強い、瞳だった。 「そんなこと言わないよ。もしその子が私の子でも」 だから、何処にも行かないで。 声にならなかったその言葉は、どうやら伝わったようだった。
白狐の黎明堂
あんたの言葉に誠意なんかが込められているものか 別れはあまりに突然だった。 覚悟してなかったのかと聞かれればそれは否であり、つまるところ足りなかっただけなのだが。 あまりに綺麗な顔をした死神はあたしの傍に寄り、涙も流さずに泣くのだがら、 あたしは怒りを向ける先も失った。 「あの人から、頼まれているんです」 咽び泣くあたしが落ち着くと、死神は切り出した。 「お店の方には話をつけてあります、不自由はさせません。 …俺の手をとってくれますか」 落ち着いた筈の涙腺がまた刺激されて、あたしは今度こそ崩れ落ちた。 そういえば、あの人は一度もあたしに好きだとか、愛してるだとか言ってくれなかったな。 でもきっと、その分行動に込めていてくれたのだ。 徐々に身体を蝕んでいく怠さに逆らうこともせず、 次に目を覚ましたらこの死神の手をとろうと、あたしは心に決めたのだった。 (臆病者で弱虫な貴方を、あたしは愛しています)
紫電一閃
獅子と涙々 『サルちゃんかい』 久々に麓まで降りてみれば、仮にも門番だという彼らは片方しか居なかった。 『おコマはどうした?』 『あの子は妖狩り。最近増えたわよ、やっぱり』 はぁ、と漏れるのはため息。 『普段は此処から離れないアタシらまで良い気分になっちゃうんだから、 今回の子は相当なんだろうね』 『あぁ』 山に取られた子を思い浮かべる。 その使命に見合うだけの、もしかしたらそれ以上の力を持った子供。 『…手放すのは惜しいかい?』 『そうだな。 何度繰り返そうともこれには慣れぬ。しかし、我々とて理には逆らえぬよ』 この山を守り続ける不思議な力。 恐らく、この世界そのもの。 それが理。 『今を楽しむことだね。アタシだったらそうするよ』 『…そうだな。我もそうするとしよう』 いつか振り返る時、この日々を悔やまぬように。
手の鳴るほうへ
愛したきみも温度も声も音も涙も記憶もふりだしに戻って忘れ尽くそうとおもうよ もう一週間経った。 食べ物は何とか見付けることが出来たし、毛布もあったから夜に凍えることもなかった。 すぐに戻るから、そう言い残して消えたあの人は、まだ戻って来ない。 そして何処かで、もう二度と戻って来ないのだろうと思っていた。 意図的であろうと、事故であろうと、きっと置いていかれてしまったのだ。 視界が歪む。 胸が痛くて痛くて、それでもそれが何なのか良く分からなかった。 痛みからか目からぼろぼろと水が出てくる。 「お嬢様、落ち着きましょう?」 そう言って比較的綺麗なハンカチで顔を拭ってくれた、あの人はもういない。 痛いのは嫌だなぁ、声をあげながらそんなことを思う。 でもどうせ痛いのなら、落ち着くまではずっとあの人のことを考えていよう。 そうして疲れて眠ってしまい、起きたときには全て忘れていた。
混交する景
純真で腐敗する真心 海の見える丘に白い石を立て、その周りに花を植える。 これでもう、彼女は寂しくないだろう。 彼女は生きて、と言った。 悲しくて今すぐ傍に行きたいけれど、彼女の願いを無碍には出来ない。 それにきっとあの願いには意味がある。 彼女はきっと、戻ってくるつもりなのだ。 この世に、僕の隣に。 「待っているからね、アンナ」
No.
八つになったら神様とお別れ 「御稲荷様」 擦り寄る子供を尻尾であやしてやる。 先ほどまで世界の終わりのように泣いていたこの子も、ようやく落ち着いてきたようだ。 「どうして八つになったらお別れなのですか?」 寂しいと思ってくれるのか。 「寂しいです! 確かに麓には父上も母上もいて、私を愛してくれているのは分かります。 けれど、理由があったとしても育ててくれたのは御稲荷様なんです、 御稲荷様も私の母上なんです」 ああ良かった、真っ直ぐな子に育ったな。 安堵のため息を吐く。 それから、それは永遠の別れではないのだと教える。 会いたいと思えばいつでも会える。 「本当に?」 私嘘を吐いたことがあったか? 「いいえ」 だろう? 別れは全てに平等だ、しかしそれを嘆く必要などないのだ。 ただそれは、自分に言い聞かせるように。
手の鳴るほうへ
出戻り交差点 出ていけ。 そう言われた時、確かに安堵したことを覚えている。 好いてもいない男の元へ嫁に行き、 全てを捧げるくらいならば死んでやると、そんな覚悟でいた日のことだった。 嬉々として荷物をまとめその日のうちに実家に戻った私を、 あの男はどんな目で見ていたのだろうか。 どうでも良かった。 私には愛しいあの子がいれば、それだけで良い。 他は要らない。
紫電一閃
不倫だなんて馬鹿をおっしゃる 「兄さん、久しぶり」 弟が来ていると聞いて居間に向かえば、妻と弟はお茶をしていた。 「よく来たな」 「マコトに呼ばれちゃってね」 一人娘の名前を出されれば、私も苦笑するしかない。 娘が弟に懐いているのは周知の事実だ。 父親である私が嫉妬してしまう程に。 「で、そのマコトは?今日は塾だったか」 「あら、覚えていたのね」 「努力はしているさ」 そんな他愛のない話を娘が帰って来るまで続けた。 純粋に楽しかった。 だから、私はこの手紙を握り潰す。 私宛に月に一回程のペースで届く密告の手紙。 弟は妻と通じている―――そう書かれた、不幸の手紙。 誰にも読まれないように部屋の暖炉で確実に燃やしてしまう。 何処の誰のお節介か知らないが、放っておいて欲しいのに。
白狐の黎明堂
縞模様と水玉とタータンチェックに真っ赤な花柄 どさり、と目の前に置かれた紙袋たちに目を丸くする。 「H?これは?」 「紅い方に変われ」 魔本を取られたくないならな、と脅しを受け取り急いで交代。 「お前にだ」 変わった瞬間、状況について行けなくて困った。 「え、何これ、どういうこと」 「お前にやる」 そういうことじゃない。 アタシとあの子は同じ身体を共有しているけれど、同じ時に同じものを見ている訳ではない。 感覚を共有するにはお互いの許可が必要だ。 だからいつもは交代する前に状況説明をするか、わかりやすいように共有から入るものだが… どうせこいつのことだ、すぐに変われなどと言ったのだろう。 「えーと」 「所謂贈り物だ、返品は受け付けない」 包帯で顔の半分は見えないが、その表情は照れているようにも見えた。 「あ、ありがとう…開けて良い?」 「どうぞ」 中身は大量の服だった。 「…これ、ほんとにアタシに?」 「お前は特殊だから、青い方が着ても怒りはしないぞ」 これまたそういうことではないのだが、助かるので黙っておく。 「いつ見ても同じ服だからな、お前は」 「同じ服って失礼な。制服だから、これ」 「もっと着飾れば良いのにと思ったから買ってきた」 これだからお坊っちゃまは!と思わなくもないが、嬉しい気持ちの方が上回る。 「ありがと、H。大事に着る」 「あ、あと服を贈る意味は分かってるな?」 「H、君、一回死んだ方が良いよ」 ぶち壊しである。
白狐の黎明堂
「殺せばいい。それでもきっと世界は何も変わらないから」 そこはあまりにも殺伐とした場所だった。 生きるのにもギリギリで、それでも私はこの子と共に生き延びなければならなかった。 誰に言われたのでもない、私が決めた使命。 「女か」 その視線を向けられた途端、背筋が凍るということを知った。 そして同時に、逃げることなど叶わないと知る。 「一人か?」 「生憎と一人よ。此処はそういう所なんでね」 脳裏に浮かぶのは小さな子供。 名前を知らないから一度も呼んでやれなかった。 いつか、いつか戻れる日が来ると信じていたから。 男がにやりと笑うと、その後ろからまた何人か湧いて来る。 ああ、非常に残念だ。 一緒に戻ってあの子の名前を呼んであげるのが夢だったのに。 さよなら、お嬢様。
混交する景
暴かずとも幽冥の彼方 「レディは人間に手を出したことがあるんだったよね」 突然振られたのは触れられたくない話題だった。 「…それが、どうした」 「あっ触れて欲しくないんだね?でも続けるよ」 こいつ、なかなか良い性格してる。 「理由聞いても良い?何で?魂欲しかったのか?」 俺たち純血種の死神は人間の魂を得ることでそれを力に変換できる。 つまり簡単に言えば強くなれる。 純血種死神の取り込んだ魂はその死神が死んだ時に解放されるので、世界の魂数に影響はない。 「いや…そうじゃない」 でも、そうじゃなかった。 「へぇ。何で?」 気配でにやけているのが分かる。 何で…何故だろう。 何故俺は人間に、大嫌いな人間に拘った? 「恋でもしてたの?」 まさ、か。 「それはない。 理由なんてなかった、ただそれが目に付いたから、ただそれだけだ」 「ふーん。それって立派な一目惚れだね」 ああ言えばこう言う! 「じゃあレディのことは置いといて。人間の方はどうなのかな」 人間の方。 今の話からすれば、 「あの人間が俺に恋でもしていたと?」 それこそ、まさか、だ。 「えーだって、可笑しくないか? 死にたくないなら最後まで契約を履行すれば、 死後魂がレディに取り込まれるだけで、特に寿命が縮まることもなかったんだろ? なのにそれを待つことなく契約から抜け出して死を選ぶって、可笑しくないか? 死後通常の魂がどうなるかまでは説明してなかったんだろ?」 頷く。 頷いてからぞっとした。 今更あの人間の思惑が分からなくなったのだ。 「生まれ変わりについては話したのか?」 「あぁ。俺が死んだら魂は解放され輪廻に戻ると」 「そうだな、私ならこう考えるね。 一緒に生まれ変わって違う者として会うよりも、そのままの君にもう一度会いたい」 ぞわり、と背筋を何かが駆け抜ける。 「その為には君に取り込まれてはいけない、死を待つことなど出来ない」 ふふ、と笑って急に明るい声になった。 「まぁ、これはあくまで私の考えさ。 真相はそれこそ本人でなきゃ知らないさ」 ああそうだ、これは暴かなくても良い事実。
白狐の黎明堂
ぼくを支配するマリッジブルー がたん、ごとん。 あ、知らない町。 気付いたら電車に乗って、知らない町に降り立っていた。 何も言わないで来ちゃった。 でも別に後悔はしてないなぁ、反省はしてるけど。 小さな町だった。 花の香りがずっと続いていて、素敵。 今頃あの人は心配しているだろうか。 「お嬢さん、逃げてきたのかい?」 突然声を掛けられた。驚いて振り返る。 小さな机を構えているお婆さん。 占い師か何かだろうか。 「逃げて来た…とは違うようだね。少し息抜きかい」 「そう、ですね」 「ふむ。これから少し難儀なことがありそうだね。 とても幸せだが、それ故に悲しいことになりそうだ。 忘れてしまえるのがせめてもの救いかな」 どきり、とする。 忘れてしまうって、一体何を。 「でもお前さんは悪くない。 そしてその子も、お前さんが悪いなどとは思わない…寧ろ、幸せを願うだろうね」 どういうことなのだろう。 私は一体将来何を失ってしまうの。 そして、それを忘れてしまう? 「冗談じゃないわ」 お婆さんを見つめる。 「何が起ころうと、私は私の幸せを忘れたりしない。 悲しいことになんて、させない」 「何を思うかは自由だ。お前さんの未来なのだから」 お婆さんはにこりと笑った。 人間にどうにか出来ることではないのだと、その笑顔を見て何となく思った。 「さぁ、お帰り。眼鏡の青年が探しているよ」 それでも、悲しいことが起こる未来を、私は受け入れたくはない。 知ったのならば抗いたい。 「はい。ありがとうございました」 頭を下げてお礼を言う。 あ、お代。 しかし、頭を上げた時にはもうお婆さんはいなかった。 ぽつんと残されている古びた机。 化かされたのかしら、そう思って踵を返す。 「頑張ってなぁ」 後ろで声が聞こえた気がした。 「このめ!」 最寄りの駅で降りて連絡すると、彼はすぐに迎えに来てくれた。 「ごめんなさい」 「心配した、無事で良かった」 安堵したように眉尻を下げる彼に、燻っていた不安が治まっていることに気付いた。 消えた訳ではない。 でも、抗うべき未来を聞いたから。 「あのね、みずほさん。私、不思議な体験をしたの―――」
手の鳴るほうへ
いとしいわがこよどこへゆく 「奥様!奥様!!」 ぼんやりとした意識をメイドの声が引き寄せた。 「うまれた…?」 「ええ、元気な男の子と女の子です!」 重い身体を何とか動かしやっと目に写った子供は、お世辞にも元気とは言えなかった。 でも、生きてうまれてきてくれて、良かった。 ほっと目を閉じようとした瞬間、その安堵はメイドの悲鳴によって引き裂かれた。 「な、に…!?」 歪んでいる。 思ったのはそれだった。 空間が不自然に歪んでいた。 「まさか…時空の歪み…」 時折起こるとされる、時空全体の歪み。 何も今、此処で起こらなくても。 「奥様、坊っちゃまを!お嬢様は私が!!」 腕の中に落とされた息子。 メイドは果敢にも時空の歪みに近付いていく。 その手が届いた、息を飲みならもう大丈夫だと思った。 ごう、と音がして一瞬歪みが拡大し、 「アメリア!!」 娘共々メイドはその歪みに堕ちて行った。 「ユーフェミーア…」 一度も呼んでやれなかった名前を呼ぶ。 騒ぎを聞き付けてやってきた夫に縋り付いて、私は初めて声をあげて泣いた。
混交する景
愛することを覚えなさい、恋をするのはそれからだ。 「私はハルシオン様の婚約者なのに! ハルシオン様は妹君のことばっかり!!」 「N、そのことは」 「分かってるわよ、外では言ってないわ」 うな垂れる。 何度会いに行こうとも、何度愛を囁こうとも、 彼の頭の中は帰ってはこない妹君のことでいっぱいだ。 「こんなに…こんなに好きなのに」 ため息が聞こえる。 むっとして顔をあげると、父上は予想以上に厳しい顔をしていた。 「N、良く聞きなさい」 耳を傾けた私は、泣き出してしまった。 父上が分かってくれなかった訳ではない。 あまりにも私が愚かだと、自覚してしまったから。 責めるばかりで、私は私に対してしか努力が出来ていなかったのだから。
混交する景
挫けて折れて砕けちゃえ その綺麗な翠色が作りものなのだということは、本人から聞かなくても分かっていた。 私は彼のことを何も知らない、聞こうとも思わない。 だから、分かることしか知らない。 私は、彼に自分を知って欲しいと言って欲しいのだ。 縛り上げて自分のものであるのは当然として私を見るのではなくて、 追い掛けて追い掛けて、それでも手に入らなくて懇願して欲しい。 ボロボロになる程、私に心を砕いて欲しい。 だから私は逃げ出した。 次に会う時には、彼が全力で追い掛けてくることを願って。 そのために、散々プライドを傷付けたのだから。 どうか、私に屈服してよ。
白狐の黎明堂
眩惑の狭間に転落死 私としては営業を頼みたいのだが、 そう言って父さんが渡して来たのは各部署の細かい仕事とメンバーのデータ。 僕としては営業については好き嫌いはないが、 出来ることなら社内での仕事がメインのところが良いと思っていた。 が、そんな考えは一瞬にして吹っ飛ぶ。 「父さん」 「何だ」 「社内恋愛って禁止だったっけ?」 「禁止ではないがなるだけ控えてもらえると有難い。特にお前は」 「じゃあバレないように頑張る。 バレたら異動…いや転勤で良い。勿論僕が」 はぁ、とため息が聞こえる。 了承と受け取って書類を返す。 「僕、営業頑張るよ」 これを一目惚れと言わずしてどうしよう!
白狐の黎明堂
腹は減らぬが御前の精液は戴くよ 喉に指を突っ込んで吐く。 胃の中のものが簡単に出てくる。 色なんか見たくもない、気持ち悪い。 「落ち着いたか?」 「悪い…」 水で口を濯ぎ、タオルを受け取る。 あり得ない、飲ませるとかあり得ない。 「食べれるか?」 「あぁ」 残しておいた夕飯を齧る。 いつもは味のしない硬いパンがとても美味しく感じた。 「…うま」 「腹減ってた?」 「いや…減ってない、ってか最近減らない」 ストレスだろうと思う。 こいつがいなかったら、俺はとっくに栄養失調で死んでいるだろう。 「ありがとな、お前が気ィ遣ってくれるから、何とか食べれる」 「役に立ってるなら良かった」 ふと、その表情が翳った。 「…強要、されんの?」 「最初はそうだったかな。 気に入らないと殴るから、あいつ。 痛いのやだし、自分からするようになったよ」 ぽん、と撫でられた。 「悪い」 「お前だから喋ったんだよ、馬鹿。 ていうかお前俺の頭撫ですぎ。俺子供じゃねぇんだけど」 くすくすと笑って再度撫でられる。 こいつ、聞いちゃいねぇ。 「ほら、早く食べちゃえよ。寝るぞ」 「おぅ」 きっとまだこれは続いていく。 でも、こいつがいる限りは、戦える。
白狐の黎明堂
たから、あとまう少したけ、息を潜めて待つてゐて 『無事?』 暗闇の中、残された子を不安から抱き締めて、緊張を張り詰めていた。 知った声に顔をあげる。 「コト…」 幾筋もの涙の跡はもう隠せなかった。 「他の皆は…ッ?」 『闘ってる』 短く言う。 『僕もすぐ戻る。 無事なら良いんだ、ウガ様が心配してたから、少し様子を見に来ただけだよ』 「ま、待って!!」 ふいと背を向ける彼に縋る。 「私も連れてって、私も闘う」 『馬鹿を言うんじゃない』 間髪いれずに返って来る言葉。 『あの妖は君を狙って来ているんだ。 君は選ばれた子供、僕らが守るのは当然のこと』 無力を諭されているようだった。 『僕らと違って君は人間だ、生まれ直しがきかない。それは分かっているね?』 また、涙が溢れる。 『僕はもう行くよ。…ツウ、よろしくね』 『ええ、任せて』 腕の中の彼女が答えて、彼は消えた。 私はただ、残った彼女を抱き締めるしか出来なかった。 ああどうして、人間とはこんなにも弱い生き物なのだろう。
手の鳴るほうへ
猩猩緋と薔薇と魔獣 薔薇のような人だと思っていた。 手折れば枯れてしまいそうな、でも強さを持った薔薇。 契約の継承の為だとは言え、結婚を申し込まれたことには驚いた。 そして同時に、不安に思った。 私は彼女の前の夫を知っている。 彼はとても綺麗な紅い眼をしていた。 私の眼も紅だったが、比べものにならない程、綺麗な紅。 いつも何かが燃えていた、あの不思議な紅。 私は、彼女がその紅に囚われていることを知っていた。 「私で良ければ」 「ありがとう、アリス。これで世界は救われる」 笑った彼女の心は、彼についていってしまったのだろうか、そこまでは分からなかったが。 どうかこの薔薇を手折るのが私であるように。
混交する景
僕は海月になりたかった いつものように紅茶を淹れる。 あの人の朝は僕の紅茶でないと始まらないらしい。 僕の仕事を取り上げようと躍起になる同僚が淹れようとするのを 止めていたのを僕は知っている。 自分用に淹れたものを飲み干すと、立ち上がった。 あの人用のものは起こしてから用意する。 だから、起こしに行かなくてはいけない。 軽く扉をノックするが返事はいつも通りなし。 勝手に入る。 「朝ですよ」 カーテンを勢いよく開ければ、眩しそうに瞼があがった。 「…おは、よ」 宝石のような、綺麗な眸。 「おはようございます。 紅茶淹れますから顔を洗ってきてくださいね」 「はい」 少々ぼんやりしたまま洗面所に向かう後ろ姿から目を逸らし、ベッドを整える。 それから台所に戻った。 「おはよう」 さっきよりもさっぱりしたその人に紅茶を出す。 「うん、おいしい」 金髪が朝陽を浴びて綺麗だ。 こんなに綺麗なのに、この人はまるで海にでも沈んでいるようだ。 僕は常々そう思っている。 それを本人に言ったこともある。 そうした納得したように頷いた挙句、それを望んでやっているとまで言い出す。 そんなこと、あるはずないのに。 「どうしたの?」 「いえ、何でも」 にこりと笑って朝ごはんの用意のために立ち上がる。 望んでいるなどと嘘を吐くのなら、僕はそれを真実だと思おう。 それでも暗い暗い水底にいるであろうあの人を、見失うことなどないように、闘おう。 僕に救えないというのなら、僕は何かが変わるまで待つだけだ。
いばらの杜
透徹様よりお借りいたしました
201306255