レイニーデイ、いつか傘越しにキスをしよう。 

 向こうに行くには資格がいるんだよ、と君は言った。
「資格って?」
「資格は資格だよ」
貴方にはないもの、と言う君と僕の違いが分からないまま、立ち尽くしている。
 雨の音が鼓膜によく響いて、うるさいくらいだった。<

***

弁当セール二百十円 

 生活の匂いがする、と思っていた。その背中はいつだって生活の匂いがする。路地裏の匂い、パチンコの匂い、貰い物の香水の匂い。柔軟剤の匂いがすることはあまりない。こんなに生活しているのに、この背中はあまりにも冷たい。
「せんたっきの音って、嫌いなんだもの」
百木田(ももきだ)がごろり、と転がった。床にはマットも引いていなくて、猫の毛がたくさん落ちているのに。埃よりマシなのかもしれなかったけれど。
「嫌いなの」
「うん」
「どうして、って聞いても良い?」
「聞いても良いけど、答えられないよ。理由を考えたことはない、ただ、嫌いなものは嫌い」
「いつか、私もそうなるの」
「千里内(せりない)は、まだ、サボテンだから」
「サボテン?」
「多肉植物じゃない」
「同じじゃないの」
「私にとっては違うよ」
自分の見ている世界を説明するのは面倒だね、と百木田は笑って、それからまた寝返りを打った。背中が見える。背骨はきっと同じ数しかない背中。美しくなれない背中。
 百木田はただの人間で、私もきっと、ただの人間だった。
 だから私が代わりに洗濯機を回してあげる、とは言えなくて、気に入らない香りだったそれを排水溝に流した。



後ろ手に石鹸を渡す ひとときをおなじ匂いに包まれている / 林あまり

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エンドロールが流れる前に 

 どうしようもないな、と思う。だって世界はそういうもので、終わりが来たから終わらなくちゃいけない。隕石だとかそういう、もっとドラマチックなものが良かったな、と思うけれども此処は現実だからそうもいかなくて。ゲームオーバーの表示より拍子抜けに世界は終わっていく。誰もどうにも出来ない、だから私は走り出す。すれ違った友人が授業は!? と叫んでいる。そんなもの、もう世界が終わるのに。
 カン、カン、カン、と非常階段のステップ。剥げた黄色が目に痛い。でも、それで良い。はやく、はやく、と急かす声がする。私の声、心の声。ずっと殺してきた、声。
「大好きよ!」
ちゃんと言えるように今から練習をする。すれ違う人々が振り返る。スカートの裾が翻って、この足の向かう先に君がいるのが嬉しくて。
「だいすきよ」
喉が、舌が、覚えるように、繰り返す。世界は終わって良い、どうせ終わるものだから、でも、その前に。
 早く君を殺さなきゃ。



愛は刹那 @l_is_m

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偏心 

 生きていないみたいだ、というのがきっと僕の最大の賛辞の言葉であることを彼女は分かっていた。だからその、ひどく艶めいた髪を僕に触れさせて、それからその胸に抱くようにして頭を撫でたのだろう。胎内へとかえすようなその仕草を僕は残酷だと思った。そして彼女もまた、僕がそう思うであろうことを分かって、いた。そういうやつだと分かっていて、彼女はこんなことをする。人間ではないようなことをする。
 それを思ったら涙が出て来て、彼女はそれを見てやさしいね、と言った。何処も優しくはなかった、ただの言葉遊びだ、それでも彼女は言う。彼女の舌はそのためにあるのだから。
「どうかこの世界がすべて、きみの夢でありますように」
ほら、目を閉じて、と覆われる目玉が、正しいことを映していたことなんて一度もない。今見ている彼女だって、正しくないことを僕は知っている。知っていて、黙っている。正しくない世界で何を言っても仕方がないことを僕は知っているから。
「嘘吐きだったら良かったのにね」
目玉を覆われているのに、見えてしまった。掌が透けるようにして、彼女の髪に降り注ぐ陽射しまでくっきりと僕は受け取っていた。
 彼女は笑った。
 どうしようもなく、美しい顔で笑った。

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誰でもかみさまが見ているものよ 

 また後輩に包帯が増えていた。そういうものなので、本当は気にしてはいけないのだろう、ということは分かっている。この世界はどうにもならない不幸というものがあって、幸福な人々はそれに気付かないことが正しくて、だから不幸な人々―――この場合の俺たちは、きっと消えていくしかなくて。世界はそうやって出来ているので、仕方のないことで。わはは、と後輩は笑う。そんな難しいこと考えてるんですね、なんていつものように。
「まあ飴食ってりゃ痛みもなくなりますよ。たぶん」
他人事のような言葉に、俺だって痛む胸がない訳じゃあない。
「痛くないの」
「まあ多分痛いです。たぶん」
「多分って何」
「先輩が気にしてるから痛そうなんだろうなって」
もう分かんないほうが良いでしょう、と言った後輩を、抱き締めてやったり、そういう偽善的なことすら出来ないから俺たちは不幸のままなのだと、俺は生まれた時から知っているのだ。

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自由のつばさ 

 何か特別なことを期待して買った訳ではない。ただその場から逃げたくて、でも逃げるにはなにか買わなくてはいけなくて、だから彼を選んだ。この時に彼、と言った時点で僕の感覚は此処にいるに相応しくなかったのだろう、と思うけれど僕だって好きでこんなところに来ていた訳ではないので仕方ない。そもそも此処には人権なんてないはずだし、いや人権と言って良いか分からないけれど、あったらこんなことをしていないはずだし。
 異種間協定。
 協定とは言うものの、一方、この場合人間にひどく都合よく作られた事実上の奴隷契約だった。じゃなければこんな大々的にオークションなんてやってられなかっただろう。それでも主催側だっていつ協定がひっくり返されるか分からないから、共犯者を作るつもりでこうやって逃げ出そうとする人間に首輪をつける。
「どうなさるおつもりで」
「そういう、言葉遣い、良いよ…人混みに酔っただけだし、君にとってはひどく自分勝手な話だろうけど、君をどうしようとか、僕はまったく思いつかない訳だし。ええと、手放す時の誓約書…これか。とりあえず家に来てもらって、これからについて話し合った方が良いかな…」
「風も強いですし、書類を此処で出すことはおすすめしません」
「うん…そうだね…そうしよう…」
大丈夫ですか、と彼は言った。頬にあるバーコードを痛々しいと思うことは出来なかった。大丈夫だよ、と返す。
 そのあと話し合いをして、それで全部が終わると思っていた。

 僕の朝は、彼の声から始まる。
「主、起きる時間です」
「もう?」
「朝食はスコーンですよ。焼き立てです」
「うーん」
「はちみつもあります」
「起きる…」
きちんとした身なりで、彼が僕の手を引く。
 あの日、話し合いで決まったのは彼を奴隷としてではなく単純な雇用にて此処に置くことだった。彼の売り込みに、執事長もメイド長も納得してしまって、僕も別に困ることはないので拒絶することもしなかった。まあ、仕事が出来なかったら他を斡旋するということで、と言ったはずなのだけれど彼はあれよあれよという間に出世して、今では僕の助手という立場になっていた。
「他にやりたいことないの」
スコーンをかじりながらそんなことを聞く僕は多分残酷だ。でも、彼は笑って言う。
「ありませんよ」
「そう? つまんないとは言わないけど、他にもたくさん、なんか、ない?」
「ないですね」
「………そう?」
語彙力のない僕に彼は笑う。
「此処での生活は楽しいですよ」
「そう?」
「主の助手であるならば当然のことです」
 その時初めて、多分僕は彼の頬のバーコードを憎らしく思って、でも、僕にはやっぱり何も出来ないから何も言わなかった。

***

ゆるやかな自殺 

 ゆらゆら、ゆらゆら、と揺れている。世界ではなく、私が。
「わに」
私の呼んだそれはさめのように見えた。なら、きっと私はうさぎなのだろう。ゆらゆら、ゆらゆら、彼の背中でないことを喜ぶべきかもしれない、私は皮を剥がれないし彼も私の皮を剥がない。
「わに」
 世界が、揺れている。
 私が、揺れている。
 陽射しも波の音も嫌いだったから、ただ彼の尻尾の音だけを聞いていたかった。

***

カーテンのこちらがわ 

 また枯らしたの、と君は言う。聞くんじゃなくて言う。
「食べられないからね」
「じゃあどうしてかったの」
買ったなのか飼ったなのか、君の方を見られないでいる。がらくたみたいなピアスが、光を受けて騒いでいた。
***

放送時間外 

 この世界が正しいかどうかなんて分からないけれど、結局何かしていなくちゃいけなくて、例えば息とか、そういうくだらない思考をしなくちゃ生きていけないような仕組みが、少し窮屈だから、
「バッテリーなんてはやく切れてしまえば良いのに?」

***

彷徨えるはる 

 悲しい思いはしたくないね、とユンケルの空き瓶に花片を集めていく。毟り取ったらはやいのに、君はそういうことをしない。モラルとかの問題ではなく、死んでいないと意味がないとのことだ。落ちた花片のことを死んでいる、と表現することも、死んでいないと意味がないと思うことも、まったくもって理解出来ない。それでもその空き瓶がいっぱいになったら、受け取るのだろう。その未来だけが見えている。そしてそれは、春が終わるよりずっと前にやって来る。



20200511