概念としての掃除機 

 すべてを吸い込むブラックホールが僕の手の中に生まれた。それは事実上の僕への勝利宣言であった。誰からの、というと君からの、である。君以外に僕に勝利宣言をするものはいなくて僕は結局君だけしか見ていなかった。君以外に意味はなく、君以外に価値はない。それが僕の世界であってそんな僕の手の中にはすべてを吸い込むブラックホールが生まれている。これは君からの答えも同然だった。僕は全身で好きだと叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ、その声も消えていく。みるみるうちに世界は崩れて滅びて僕と君しかいなくなって、それから。
「大嫌い」
 予定調和に君は笑った。



れもんのきもち @lemon_no_heart

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腹の虫 

 腹の中に虫がいる。人間は皆そうだ。気が付いていないこともあるが人間とは元々そういう生き物であるのだ。それを私が知ったのは近所のふじ家に入った時のことだ。私はただ腹が減っていただけのはずなのにふじ家のそのガードレールに躓いて店を大破させてしまった。ちなみにふじ家は定食屋である。決してケーキ屋ではない。ふじ家の女将は声を失っていたが店主は大怒りでその虫が悪いのだと言い出した。私はその時初めて腹の中で何かが蠢く音を聞いた。私が今まで内臓の音と思っていたものは虫の移動音だったのだ。私の腹の中で虫は生きていた。
「店主もそうなのか」
私は驚いて聞いた。
「あァ」
店主は答えた。いくらか出したがそれでも出し切れていないのだと店主は言った。生きているうちは切っても切れない縁なのだと。
「生きてるうちは?」
私は急に恐れおののいた。私の死んだあとのことが気がかりになった。
「死んだら私達は腹の虫に食われるのさ」
身体の話じゃない、魂の話さ、と店主は続ける。店主の隣で女将はもう我を取り戻していた。私はその日から幾らか腹の中の虫を出すことに成功した。が。今日も取り切れなかった虫がじわりじわりと増えては腹の中を蠢いている。

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嘘だらけのこの世界で真実を見分けなくちゃいけないよ 

 ポケットの珍妙に膨れている男というのは信用ならない、そう教えてくれたのはピアノを盗んだという魔術師だった。どうしてもピアノが弾きたかった魔術師は昔はピアニストだったらしいがその真偽は誰も知らない。魔術師の動機など誰も気にしないものだったのだ。私はそれを哀れに思う。興味を持たれないことは線が繋がっていないのと同じことだ。私たちは点だ。点でしかないのに線も繋げないとなるとただそこにひたすら存在し続けるということになる。ページのめくれる音ではっと目が覚めた。魔術師が目の前で笑っていた。ような気がした。私は珍妙に膨らんだデニムのポケットを見て、ああきっとここには財布があるが中身はきっと空っぽなのだろうといつの間にか分かってしまった真実を握って呆然としていた。

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この電車は新小岩には行かない 

 セブンイレブンの袋を持った女がいる。形から見てパスタかと思われるそれを大事そうに抱えた女の腹は出ている。最近流行りのマシュマロであるが私は好まない。しかしながら女が私に何をしたわけでもないのだ。私は私の信念に従って生きるように女もまたそうなのだろう。停電の知らせに私はぎょっとするが女は平気そうな顔である。私はもしかしたら何処へもつけないのかもしれない。私はただ、誰かに会いたかっただけなのに。女はやはり平気そうな顔だった。誰にも会いたくない、一人で生きて行くという顔だった。うらめしい、と思った。女の耳にはイヤフォンが刺さっていた。

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逆行 

 誰かの読んでいる本を視界の端で捉える度にその物語に嘆息することがある。私はその本を大抵読んではおらず、そして知らない人間は大概私よりもスピードの遅い世界で生きているために、赤煉瓦倉庫が解体されるほどの速度でしか物語は進まない。私ははやく、と思うことはしない。何故ならそれらは私にとって魅力的ではないからだ。私は魅力的でないものに嘆息することが出来る。人がズボンを直すように、私にとってそれは日常だった。腹の出た男が苦しそうに呻くのとスカートのズレた女がページをめくるのはそう変わらない出来事なのだ。この世界は誰もが敵だ、誰もが私については来れない。私は誰に合わせることも出来ない異端であった。それでも寂しいという感情は湧かずにただひたすら文字と戯れそしていつか明日へと行くのだ。

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天国地獄大遅刻 

 目の前のおじさんの腹が出ている、と気付いてしまったのでそのついでに出た腹の所為でズボンに隠れられなかったパンツまで見えてしまった。彼はこのことを知らないのか、それとも人に見せることになると分かっているのか、それが問題だ。後者だった場合私たちは彼を病気に当てはめることが出来るし私たちは彼を弾劾出来る。私たちが持っているのはそういう力であり私たちはいつかそれを私に使われる。天使が羽をもがれるように、私たちは安寧な暮らしとは程遠い。しかしそれでもくたびれたパンツはおそらく彼の趣味だろうのでまず羽をもがれるのは彼だった。彼はきっと悪魔なのだろう。

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さよならの合図 

 あの青い建物には何が入っているのだろうといくら疑問に思っても答えてくれる人間はいない。私もそこまで気になることではく、疑問を繰り返せど疑問を出すことだけが私の指名であるかのようにして私はただ疑問を溢れさせる。それは既に純粋なる疑問の形ではなく私が私であるための、他人と統合されないための措置のようなものだった。しかしそれでも私は他人と統合されかかることがあり、その度に私は幼子のように首をかしげるのだ。ある人はそれを馬鹿馬鹿しいと言い、ある人は笑って誤魔化した。私は私でいたいだけなのに、ネバーランドに幽閉されたくはないのに、このリボンタイは私のものだった、大人になるために手放したはずのものを目の前の少年がしている。ああ、私は死ぬべきだったのだ。誰かを殺してまで大人になったのに今度は子供のふりをしている。軋む音がする、世界の軋む音。私は既に半身だ誰かと統合されていた。それが誰だか分からなかった。リボンタイを持っている少年でないことは確かだった。彼は彼として少年として生き続ける呪いを胸に生きているのだから、私とは違うのだ。脱走兵の私とは違うのだ。鍵を持っても使わない、賢い子供でいたかった。私はパンドラの箱を開けた、私の希望は少年だった。

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天の川の氾濫 

 橋の下には川があることは必然であるが多くの自転車がそこで死んでいることを知る人間は多くはあるまい。まさか誰かに盗まれた自転車が黄色くそこで光っていようとは誰も思わないことだろう。私はアッと声を出してしまいそうになるのをこらえていた。自転車がじわじわと光るのをやめて諦めたように見えたからである。駅前からいきなりいなくなったその自転車が所有者をどう変えてあの墓場のような場所にたどり着いたのか私は知る由もない。そうして離れてしまった私の自転車を私は取り返そうとはしなかった。翌週川は氾濫して私のものだった自転車はまた何処かへと姿を消した。次は星座になっているのかもしれない。何故ならあれだけ光り輝いていたのだから。

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何処へも行けない君たちへ 

 ダンボールが積まれているのを見た。駅の近くで電車の音に殺されるような場所だった。隣のサラリーマンもまた可哀想にと言った目でダンボールを見ている。ダンボールは積まれているだけだった、ただそれだけだった。それでも我々はそのダンボールたちを可哀想だと感じるのだ。この手首が痛むように、ダンボールにも痛むものがあるのだと思うのだ。夢のように、幻肢痛のように、我々ははダンボールに共感する。隣のサラリーマンは既に電車を降りていた。ダンボールは遠くに去っていた。

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死体の魔法 

 紅をさす。すると私の顔はいつもと違うものになる。鏡の中に鎮座する私は唇をへの字にしてどうやってこの紅を守ろうかと必死になっているようだった。紅というのは魔法の道具だった。誰でも変身出来るもの。だがしかし、本当は本当は資格が必要だったのだ。誰かに教わり勉強しなければ出来ない魔法。私はそれを知らず、未だ少女のまま鏡の中で待っている。



20190305