その頬の、大輪の華の痣のことを、私は生涯美しいと囁き続ける。

真白の鴉の云うことにゃ 

 この世界には鬼という生き物がいる。生まれた時から鬼だった私は特にそれを疑問に思ったことがなかったが、どうやら仲間内には同じ世界に暮らす人間という生き物になりたいと、そう願う者がいるらしかった。
 あんな弱い生き物に。
 なりたいなんて思う愚か者がいるとは到底思えなかったが、どうやらそれは本当らしかった。まあ人間の方が数が多いのだし、そもそも見た目で鬼と分かってしまうのだ。それで迫害されるくらいであれば逃げ続けるのであれば殺し続けるのであればきっと、疲れてしまう、というのも何となくは分かった。鬼にも力の弱いものと強いものがいる。強いものであればまだしも、弱いものは殺されたくない、殺されるくらいであれば人間になりたい、と思うのも致し方なかろう。そんなことを思いながら、それでも私はやはり本能が強いのか人間を襲うのがひどく楽しく、よく人里に降りては人を殺していた。私は樹木鬼という種類で人間に多様な植物を生やすことが出来、それが生やされた人間の生気を吸っていくのを眺めているだけで良かった。植物を生やされた人間はなかなか起き上がることが出来ずに、私はただそれを眺めているだけで良かった。そして私は人間が干からびた頃にその植物を食すのが好きだった。けれども幾ら食べても満たされない。私は燃費が悪かったらしく、他の鬼よりも頻繁に人里へと降りていた。本当は殺したいのに、殺してしまえば移動が面倒になるからと、たくさんの人間に植物を生やし、そうして殺さない程度に搾り取っていくのを繰り返していた。我ながらよく保ったと思う。
 けれども一つの狩場に定住する訳にはいかない。だから移動したのだったが、その人里は鬼に襲われた直後だったらしい。私にしては情報収集を怠ってしまって、それほどに腹がすいていたのだな、と思う。人間たちは怒り狂っていた。どうやらこの村の人間が惨殺とも言える方法で殺されたらしかった。それが私に何の関係があるのだろう、私はこんなにも殺したいのに殺さずに済ませていると言うのに。石を投げられれば痛い、多分殺されたら死ぬ。でもどうせ、人間なんてすべて私よりずっと弱かった。だと言うのに彼らはこういうことをやめない。ああ、なんて愚かしいのだろう。
 全員、殺してやろうか。
 また移動する羽目になるけれどもその方が早いのではないだろうか。きっとこの人間たちであれば私の仮の住処を見つけ出し火を放ったりすることだってするだろう。前にやられたことがある。それは面倒だ、そう思いながら地面に座り込んでいた私の目の前に、一つ、影が庇うように立った。
「………何、を」
「やめなさい!」
凛とした声が響く。
「こんな小さな子供に! 恥ずかしいとは思わないのか!」
角がない。
 人間だった。
 頬に大きな大輪の百華痣を持ってはいたものの、それは人間でしかなかった。分かる。私のこの小さな角から送られてくる欲求が、こいつは人間なのだと訴えている。人間たちは一瞬怯んだものの、こいつも鬼だ! と叫んだ誰かの声で我に返ったらしい。誰かが武器を持ってくるのが見えた。多分あれは畑を耕す…何だったか、でも殴られれば痛いものだった。私はそれも知っていた。
 華持ち。その存在は知っていた。人間でありながら百華痣をその身に宿す存在。鬼には同じ花の形の痣を持つ人間が必ずいると言われていたが、人間の方が何処まで知っているのかは分からない。この分では何も知っていなさそうだな、と思う。随分年上に見えたその人間は、小さく見える私の前で震えながら、それでも其処を退かなかった。華持ちが振り返る。その頬の大輪の華は、私の持っている痣のものとは違った。
「お前は人間だよ」
そう言って震える手を差し伸べてきた。何も知らないくせに、そんなことを言う。何故、と思った。私は人間ではない、私は鬼だ、だからこの村を襲おうとして、返り討ちにあおうとしているのだった。けれども華持ちは何も心配することはない、と私に語りかける。
「ただ、少し違うだけの、人間だよ」
私はそれを直ぐ様否定しようとして、それから少し思い悩んで、その手を取った。人間の声がする、殺せ、と誰かが言う。私はこの瞬間を邪魔されたくはなかった。だから力を使う。呪力、人を襲い殺すための鬼の力。その場にいた全員に植物が生え、まるで其処は花畑のようになった。この植物たちは私の気持ちに感応する。つまり、今、私はとても花を咲かせたかった。
 華持ちは突然咲いた花に驚いたようだったけれども、私がその手を引いて逃げるぞ、と言ったら慌てて頷いてくれた。
 そうして、誰もいなくなったところで、あの村の人間の生気は何一つ手に入らなかったな、と思い出す。でも夜になったら回収しに行けばいいだろうか。その前にはさて、と見上げる。華持ちは息が上がっているようだった。そういえば華持ちは百華痣があるだで、ただの人間と変わらないのだと思い出す。私が落ち着けるようにその頬の痣に触れると、怖くないのか、と問われた。
「怖い?」
私は意味が分からずに問う。怖いと言うのは、きっと華持ちの方が私に思うことではないだろうか。私の痣は肩から背中を通って臀部まで続いてるため、こうして着物を着ていれば見えないが、隠している訳でもない角は普通に目に映っている。私の角は小さいが確実に人間にはないものだと分かるし、先程だって呪力を使った。花畑なんて可愛らしいものにはなったけれども、やはり呪力は呪力だろう。
 この華持ちの痣は私の花の形とは違う。だから、この華持ちが私の呪力を封じることは出来ない。今から食われてしまうかもしれないと、そう思う方がまだ分かったが、華持ちは心配そうに私を見遣るだけだった。
 そのうちに華持ちの息も落ち着いてきた。
「私は熾凍(しとう)」
改めて、と手が出される。だから私はそれを握る。これを人間は握手と言うのだったか、初めてやった。
「お前は?」
「度会(わたらい)」
簡潔に応えると、華持ちは、熾凍は笑った。怖いとは思っていないのがよく分かった。よくもわるくも肝が据わっているらしい。
「大丈夫だから」
熾凍は言った。
「私はお前を守るよ」
「守る?」
「お前は人間だから。…こんな、目立つ痣を持っている私が一緒では、お前も目を付けられてしまうかもしれないか…だから、お前を信頼出来る人のもとへと置いておけるまで、私が守るから」
「良い」
「え?」
 熾凍の話を聞いている間に、私は一つ、思いついていた。
「熾凍の言う通り、私は人間だ」
嘘を吐こうと思った。熾凍は鬼のことも華持ちのことも何も知らない。だから、嘘を吐こうと思った。
「病気、のようなものなんだ。そして、この病気にかかっている者は多くいる。この病気には本当は治す方法があるし私たちは人間なのだけれど、あまりにほら、見た目が違うだろう。だから自分は鬼だと思い込んでしまってもう戻って来ない者もいる」
「それは、」
「…熾凍が気にすることじゃあない」
不幸なことだったんだ、と私は言う。表情の作り方など分からなかったから、いつも通りに言う。
「私は一人で旅をして来た。治療法を、探すために」
「一人で?」
「親には…捨てられたから」
「………そうか」
これも嘘だ。鬼がどう生まれるのかなど、よく分かっていない。親なんてものがいるのかも。
「でも、熾凍に会えて良かった」
「私に?」
「私たちのような病気の者…鬼、と呼ばれているからそれに倣うけれど、鬼を治すのには鬼ではないが痣を持つ人間と共に暮らすことが必要なんだ」
「共に暮らすだけで良いのか?」
「言葉の綾だ。人間のまま、その痣を持つ者には特別な力があるんだ。鬼は、その力を少しずつもらって、そうして身体に馴染ませる。すると、そのうちにこの病は治ると言われているんだよ」
「そうなのか!」
「ああ。…でも、どれだけ時間が掛かるのかも分からない。鬼は、人間を食べたくなってしまうから。…否、そう思い込んでいるだけなのだけれど………」
「…度会は、」
 その手が私を撫でる。
「私のことも、あの村の人間のことも食べなかったじゃないか」
信じるよ、と熾凍は言った。そうして、私と熾凍の暮らしは始まった。

 熾凍はどうやらあの村に捨て置かれていたらしい。その、前にやって来た鬼とやらに要らないと捨てられたのだと。その鬼は対の華を探していたのだろうか。あの村の人間たちは熾凍が何もしないのを見て、とりあえず閉じ込めておこう、という結論になったらしかった。あの時熾凍が出てこれたのは私がやって来てにわかに騒がしくなったのと、監視の目が緩んだかららしかった。
 自分が殺されるかもしれない状況にあると言うのに、熾凍は私を庇ってくれたのだった。そんな人間、今までいなかった。
「私にも親というものがいなくてね」
この痣が受け容れられなかったのだろう、と熾凍は言う。熾凍が望めば―――それは頬を削げば、ということになるのだろうけれど、場所を移動することが出来ることは知っていたが、私は何も言わなかった。
 あの日から、私は熾凍に植物を生やしたままでいる。勿論人里に降りる時には外しているし、私も充分に溜まったらそれを食べているのだが、熾凍のことは殺さないと決めていた。熾凍が寝静まってから私は人里へと下りて、人を殺さぬ程度に生気を吸う。そんな生活。熾凍は私が夜に出て行くことを知っているだろうが、熾凍の足では私には追いつけなかった。
 熾凍は花冠を恥ずかしい、と言った。だから私は自分の分を野草で作ってお揃いだ、と言った。私は熾凍がそういうことを喜ぶのだと知っていた。
「でもとてもよく似合う」
「度会、大人を誂うのはやめなさい」
「誂ってなんかいないよ」
それに、と手を伸ばす。熾凍は前髪を伸ばしてその頬を隠したがっていたけれど、今ではそんなこともしなくなった。私がこれを褒めるからだと言うことも、分かっている。
 思っていたよりも、人間は面白い。
 熾凍だから、なのかもしれなかったけれど。
 華持ちを喰らえば呪力が増し、不老不死になれるという伝承もあるが、私にとってそれはどちらでも良かった。以前に聞いたことのある、人間の言っていた方の伝承。
―――華持ちはいずれ鬼になる。
それを、信じていたかった。実際に華持ちを食らって強くなった鬼のことを知っていたから、こちらの伝承だって可能性はあると思った。対の華になんて会わせないし熾凍は誰にも渡さない。貴方が私を信じる限り、貴方が私を信じなくても、私は貴方を手放さないし食べないし、絶対に誰にも渡さない。
「熾凍、貴方のこの痣は、とても美しいよ」
熾凍は照れたように、少しだけ笑った。その瞬間に花冠がふわりと揺れて、甘い香りが漂った。
 貴方が本当に鬼に為る日まで此の嘘を吐き続けよう、貴方が本当に花冠を必要としなくなる日まで、私は貴方を喰らい続けよう。

 私は貴方を離さない。
 私は貴方のすべてになる。



(あのひとのこころはとおくにいってしまったよ)

***

 最早私には何も分からないのだ。
 一体何を望んで、何を望まなかったのか。

さよなら、私の夢。 

 それは唐突に訪れた。熾凍の存在があったのだから私は覚悟しておくべきだったのだ。華持ち。その存在をこの目で確認した以上、それに連なる言い伝えも私は記憶の中から呼び起こして、そうして注意をしておくべきだった。否、それを怠った訳ではない。でも、足りなかった。現実は私の想像よりもずっと、力を持って残酷にやってきただけのこと。
「やっと見つけた」
ぶわり、とその瞬間に香ったのが一体何だったのか今でも分からない。ただ何を確認するより先に逃げなくては、と思ったのだった。私の緊張を感じ取った熾凍が私の手を握ろうとした、その瞬間。
 隣を風が吹き抜ける。
「熾凍ッ!」
少し離れた場所で悲鳴が聞こえた。熾凍が、突き飛ばされて地面へと叩きつけられた音。思わずそちらへと向かおうとすると、それをさせまいと腕が私を抱え上げた。
「離…せッ!」
「暴れるなよ」
手慣れた様子で腹を殴られ、かは、と一瞬意識を持っていかれそうになる。こんなことを、今まで人間に許したことはなかった。
 そう、人間だった。
 私たちの前に現れたのは紛れもない人間だった。それなのに、私はいつものように出来ない。人間などただの養分で、熾凍以外のものなどどうでも良いとすら思っていた。だと言うのに、今、その人間に良いようにされている。
―――これは、
対の華。鬼を鬼でなくさせる、人間。
 信じたくはなかったが、華持ちがいる以上その存在を信じない訳にはいかなかった。
「本能がびりびり言ってるんだけどなあ、一応人違いだったら困るから確かめさせてもらうぜ」
男は私を地面に押し付けると、そのまま着物を剥ぎ取り始めた。追い剥ぎだってもっと丁寧にやる、と言うような手荒な所業。熾凍、と私は必死に見遣る。頭を打ったのか、朦朧とした瞳がこちらを向いていた。僅かに動いた腕がこちらへと伸びたが、あまりに私たちの距離は遠すぎた。
「へえ、結構なモンじゃねえか」
私の、ぶわりと肩から脇腹を通って咲いている、唐綿の華が男の目に晒される。
 今まで、熾凍にしか見せたことのなかったもの。
「…見る、な」
「冷たいこと言うなよ。これから人間にしてやろうって言うのに」
対の華。鬼が、人間になる方法。そんなのは、一つしかない。
―――性行為。
この状態で、どちらがどちらを担うかなど一目瞭然だ。
「ふざけ、るな…ッ。私は、人間になりたいなどと、思ったことは、ない…っ」
 もがいてももがいても力が入らない。本当に見た目通りの年齢になってしまったかのように。大人と子供。押さえつけられてしまえばどちらが強いのかなんて見たままだった。がり、と私の爪が足掻くように人間の―――青年という頃だろうか―――肌に痕をつけると、戒めるように男が私の頬を張った。痛い。びりびりと、痛みが身体中に広がっていく。それでも諦めたくなかった、逃げたかった。このまま私は熾凍を騙したまま鬼にして、そんな物語を信じて。御伽話を、信じて。生きていきたかった。ただそれだけだった。熾凍のために人間を殺すことはやめたし、私は人間にとって嵐のような存在で、驚異ではなかったはずだった。
 なのに。
「ふうん」
再び叱るように男が私の頬を張る。今度は逆側だった。此方の力が入らないこともあって、頬はひどく腫れるだろう。でも、それもこの男にこうして触れられている間だけだ。少しでも隙があれば。
―――熾凍と、逃げ出せる。
そんな思考を読んだかのように。
「じゃああの女を犯そうか」
 目の前が、真っ暗になったような気がした。
 この、男が?
 熾凍を、犯す?
 私が男を見上げると、男はその顔が見たかった、と言わんばかりに笑った。熾凍は今、意識が朦朧としているだろう。人間と人間だ。女の力などたかが知れている。それに私はこんな有様で、熾凍を守ってやることなど出来ない。ぐ、と喉が鳴る。こんなのは、選択肢のない袋小路だ。
「言ってみろよ、鬼。どっちが良い?」
男は私の頬を掴んで問う。
「何で対の華でもない華持ちを連れ歩いてるんだ」
にやにやと、その答えを待つ。
「ご丁寧に鬼の気配まで纏わせて」
 私の顔を熾凍の方向へと向けさせながら、私が私の言葉で言うのを待つ。
「糞餓鬼、ほら」
ずる、とそのまま引きずられたのが分かった。熾凍との距離が近くなる。それでも未だ手は届かない。届いたところでどうにかなる訳でもなかったが。
「どうせ見た目通りの年齢じゃあねえんだろう? なら、分かるよな?」
 熾凍の定まらない視線が、それでも私を見ていた。
「言えよ」
熾凍が、
「どうして欲しい?」
首を振ったのが見えた。
「…貴様の、」
「あ、俺の名前聖心(せいしん)な」
「聖心の、」
それで、私の覚悟は決まった。
「好きなように」
 最初から決まっていた答えではあったが、それでも熾凍と共に逃げるというのを諦めた瞬間だった。
 それに聖心は笑って、そうして肉厚の舌が口腔内へと侵入してくるのを私は拒まなかった。

***

いつかいつかの御伽話 

 唾液が混ざっていく。他人の体液が自分の身体の中に入ってくるというのは予想していたよりもずっと厳しいものだった。けれども此処で拒絶すれば熾凍がどうなるか分からない。私が思っているよりもずっとひどい目に合わされるかもしれない。この人間、聖心はそういうものだった。人間の中でもきっと最悪な部類のものだ。なんでこんなものが私の対の華なのだ、と喚きたかったけれども現れてしまったのだから仕方がなかった。彼が現れるよりも前に熾凍を鬼に出来なかった私の敗けだった。
「舌、出せ」
言われた通りに出すと、私の薄っぺらい舌に聖心は歯を立てた。私が痛みに呻くと聖心は嬉しそうに笑う。
「まるで愛し合っているみたいだな」
こんなふうにすると、と聖心が言うが、こんなふうにしか出来ないようにしたくせに、何を、と思った。けれども抵抗は意味がない。
 そう思って大人しく聖心の行動を受け容れていたのにそれでは面白くないのか、舌打ちをした。手が脇腹をなぞっていく。気持ちが悪かった。いやだ、と思う。けれどもこいつは私の対の華で、私の呪力を封じてしまう。熾凍は未だ人間だった、私により近くなったものの、それでも人間だった。この場で、一番強いのはこの対の華だった。いやだ、と再び思う。それでもどうしようもないのが現実だった。聖心は私の首を絞め、私の苦しそうな顔を見て愉しんでいるようだった。本当にとんでもないやつが対の華だった。私が運命を呪うことがあっても別に良いだろう、と思う。これは熾凍を騙していた罪なのだろうか。そんなことをぼう、とした頭で思いながら、ああ、と手を伸ばす。
「せめ、て、」
縋るように。そんなことをすれば聖心を喜ばせるだけだと知っていて、でも喜ぶだろうからこそ意味があると、そう思って。
「彼女、を、」
 情けない声が出た。
 でも、それで、熾凍にこんな姿を見られないのであれば。
「は?」
そう思ったのに、何を言っているのかという様子で聖心は笑う。
「そんな面白いモン、俺が叶えてやるとでも思ってんの」
 離れていた顔がまた近付いて、今度はやさしく、優しく接吻けをされた。血の味がする、と言われたがそれは聖心が与えた傷だ。
「名前、教えろよ」
「…度会」
「じゃあ度会、もう一度、どうして欲しいか言ってみろ」
聖心の手はそれでも私の首から離れない。私の身体は空気を欲して、そして脳が沸騰したようになる。
「お前が嫌ならあの女に相手してもらうだけだよ」
―――それ、だけは。
「…私を、」
 唇を噛み締める。
「だい、て、くれ」
「交渉成立だな」
聖心が舌なめずりをする。圧迫から解放されて、けれども私にはもう、逃げる手立てはない。何が交渉だ、ただの脅しだろうに、私にはそれを言う権利さえない。
―――熾凍。
 私の声は、届かなかった。
 届かなくて良かったのかもしれなかった。

 大人の姿と子供の姿では何もかもが大人の方へと軍配が上がる。
「ほら、見ろよ」
聖心は私を抱きすくめるようにして耳元で囁いた。
「ちゃんと見ろ」
私がどれだけ涙を流しても聖心が行為をやめようとはしなかった。私が見た目通りの年齢ではないからと言って、熾凍にはあまりにも残虐に映るだろう。初対面の時、私を守ろうとした熾凍だ。私が嘘を吐いて、その勘違いをそのままにした熾凍だ。子供が蹂躙されているようにしか見えないだろう。それを思ったら余計に胸が痛くなった。
「お前の執着してる女が見てる前で、何されてるのか言ってみろよ」
 聖心が私の顎を持ち上げる。熾凍のことがしっかりと目に入る。未だ朦朧としたまま、それでも熾凍は涙を流していた。私のために涙を流してくれていた。私は言われた通りに聖心に言う。自分の状況を間違いなく、従順にしている、だから熾凍には手を出さないでくれと、私は鬼であるのに人間に頭を垂れる。その度に聖心はひどく嬉しそうに私を撫で、それから乱暴に動いた。ただの幼い子供になってしまっている私は、ただそれに呻くしか出来ない。
「子供の身体で反応するのかと思ったけど、割合悪くねえな」
拒否反応で出る涙を舐め取りながら聖心はそんなことを言う。
「お前、人間になったら俺と暮らさない?」
「そんな、こと…」
「結構相性良いと思うんだけど? お前はそう思わない?」
思わない、と返そうとした瞬間に身体を内側から抉られるような心地になった。
「………ッ、あ、ぐ…」
「思わない?」
「…おも、…ぅ………」
言わされたのは分かっていた。それにまた聖心がせせら笑う。
「じゃあ一緒に暮らそうな」
「くら、す」
「だからそのために、何をして欲しい?」
「―――」
何を言わせたいのか、もう分かっている。
「な、かに、」
「うん?」
「聖心のを、出して」
「………」
「………くだ、さい………」
「よく言えました」
 その先は悲鳴にしかならなかった。
 ただただ鬼の力が消えて行くのだけが分かって、私は恐ろしかった。

 ばらばらと、小さな角が抜けて落ちていく。鬼だった証が、落ちていく。
「へえ、こうやって消えていくのか」
聖心がせせら笑うように言った。私の百華痣が消えたのだろう。それと同時に、きっとこの対の華の痣も。これで解放された、とばかりに聖心は立ち上がるけれども私は地に伏したままだった。人間になってしまった、人間になってしまった。そして、私は口約束とは言え自分の言葉で言わされてしまっている。
「ほら、立ち上がれよ糞餓鬼」
聖心が腕を引く。
「一緒に暮らす≠だろ?」
「―――」
そうだ、私が言った。きっと私がこの発言を翻せば聖心は熾凍に手を伸ばすだろう。それだけはあってはならなかった。だから、私は頷こうとして―――
「度会を離せ」
冷たい風が吹いた。
「………熾凍?」
 次の瞬間、私は地に伏してはいなかった。誰かの腕の中にいる。周りの風は冷たいのに、ひどくその腕はあたたかい。
「度会、遅くなってしまった」
「熾凍、なのか? 頭を打って…」
「度会」
愛おしそうに、熾凍は私の言葉を遮った。
「お前、人間になってしまったのか」
 その言葉を理解するのに少し、時間を要してしまう。
 人間に、なんて。
 だってずっと、熾凍は、私のことを。
「とても、美味しそうだ」
舌なめずりの音が聞こえる。それは聖心のそれとはまた違った音をしている。
「………熾凍?」
「度会、私はね。嘘だと知っていたよ」
がつん、と殴られたようだった。私の夢は熾凍に筒抜けだったのか。でも、いつから? それならどうして熾凍は、私を拒絶しなかった? 離れる理由は幾らでも作れるはずだった。もしも熾凍が私から離れたいと言えば、私はきっとそれを尊重しただろう。熾凍を追うことはしなかったはずだ。
「それでも度会と共にいたかった」
思考が追い付かない。それは疲れ切っているからではないはずだった。
「度会」
 上書きをするように、熾凍は私に触れてくる。私の唇に、接吻けを落とす。
「今度はお前が、私の餌になってくれ」
ぶわり、と冷たいものが身体の中を走っていった。これが熾凍の鬼としての力なのだろう。
「度会」
呼ばれる度にふわふわと思考が奪い取られていくように。
「今度は私がお前を鬼にしてやる」

 それから奇妙な旅の家族を見かけただとか、何だとか。
 そんな話は古今東西何処にでもあるので、目深に笠を被った美しい女とやけに堂々とした男、そして二人の子供とはとても思えぬ童子のいびつな家族の話など、その中に埋もれていくのだろう。

***

 

唐綿(花言葉:私を行かせて、心変わり)の形をした百華痣がある樹木鬼。本能に従って人間を襲うことを楽しんでいる。胃袋が底無しな大食らいで、恩人である華持ちがいる。
#鬼渡し
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20190807