君の嫌なもの
それは、契約のようなものだった、決して途切れない関係、おそらく呪いのようなもの、なんだろう。 けれどそれを“幸せ”と定義した、そんな私が其処に居た。 ただそれだけのことなんだ。 「―――怒って良い?」 会話の始まりなんて何時だって唐突だ。 その時の状況なんていちいち覚えていない。 私は直ぐに物を忘れるから、動機は余り重要でないのかもしれない。 ただ此処で重要だったのは、話している相手が君ということで、 更に重要だったのは、君と私の距離だった。 目と鼻の先。 そう表現するのが正しい。 十センチもないその差に、一瞬―――ほんの一瞬だけ、 私の目が揺らいだのに、君は気付いただろうか。 いや、気付かない方が良い。 その方が君にこれ以上、何も思わせないで済む。 ―――近い。 私の頭を支配したのは、その文字だった。 「…何で?」 声を絞り出す。 出来るだけ、平静を装って。 期待はしない、それが君との約束。 動揺は何時か期待に繋がる、私の中にはそう在った。 「ヤなの?」 君の怒り―――不満だろうか―――を理解出来ていないことを全面に押し出す。 動揺を悟られるくらいなら、馬鹿だと思われた方が幾分マシだ。 「―――…」 君は少しの間黙ってから、 「うん」 こくり、と頷いた。 そのどことなく幼い所作に、モヤ、としたものが私の中に広がる。 「そか」 私は笑う。 出来るだけ、いつものように。私の動揺はきっと伝わらなかった。 だからこそ、こんなにも君は私に近い。 僅か十センチ未満の距離は直ぐに遠退いて、不自然でない距離が戻って来る。 君にとって、私の自制心とかそう言った類の問題は、大したことではない。 私は君に嫌われたくないから、君が嫌がることはやらない。 君が、そう信じているから。 これは、信頼。 キスされるとかそう言う危機感を、君が一切持っていないという証拠。 狼は男だけではないと言うのに。 人は必ずしも、少なからず、機会を窺っている。 少なくとも私は、そう言った私を押さえ込むのに必死だ。 ―――ああ、多分私、今すごく醜い表情してる。 他愛のない会話を続けるのさえ、私は闘いを続けなくてはいけない。 そして、その葛藤を表面に出してはいけない。 私は君が思っている程純粋でも、誠実でもない。 “君を手に入れる為ならば” なんてことを平気で言ってのけて、打算的にも君に近付こうとしている。 だからこそ、無防備な君が。 その髪を掴めば十センチ未満の距離なんてあっという間だ。 君が何も考えていないと、証明しているようなもの。 私にそんなに信頼を置かないで欲しい。 私はきっと何時か、君を失望させる。 私は、私は君をずっと、 夢の中で気泡が上がった。 私の両の手は君の細い首を捉えていて離さなく、君の唇が声にならない言葉を紡ぐ。 私は笑っているけれど、聴こえない言葉が私の望むものでないと知っている。 そのうち気泡は尽きて、君の眸だけが脳裏に灼き付く。 狙っている、そんな奴だ。 ―――馬鹿みたい。 そう思いながら自嘲を表情に出さないように会話を続ける。 君は笑う。 それが“幸せ”だと思ってしまう私だから、現状が残酷だなんて思うのは、間違っている。 君の距離は、ひどく、優しくて甘い毒のようなものだった。
20100831