ネヨの旅 

 じぶんがどうして其処にいることになったのかはあんまり思い出したくないので忘れてしまったことにする。ただ思い出したくないようなことがあって、檻の中になんて入れられて値段をつけられて、商品になっていたことは分かっている。其処から出してくれたのは多分こんなところに不似合いなひとだった。髪の毛もぼさぼさ、とろんとしたひとみ、でもキョロキョロはしていなくて自分で決めて此処に来たんだろうなあっていうのは回らない頭で思った。あんまりご飯も何も食べていなくて、考えるのが面倒になっていた。多分、暴れないように調節してあったんだろうけれど、じぶんは売る側の都合とかあんまり考えたくないなあ、と今でも思う。
 そのひとはお金持ちだったのか、それともじぶんがとても安値だったのか、どっちだか分からないけれど、じぶんの檻の前でそのひとは即決して、だからじぶんはそのひとに買われた。主人認識用の首輪とそのひとが契約しおわったらじぶんはやっと檻の外に出られて、そしてじぶんはちゃんとそのひとを見上げることが出来た。やっぱりふつうのひとだった。不似合いなひとだった。でもこのひとがじぶんを買ったので今日からこのひとがじぶんのご主人様なのだった。どういう扱いを受けるんだろう、とじぶんが考えていると、そのひとはじぶんの、ひとで言う耳の部分に生えている黒い羽根に触れて、それから頭をぽんっと撫でた。
「―――ネヨ」
ぼそぼそと喋ったそのひとの笑顔が妙に明るくてあたたかくて、それを優しいっていうのかもしれないと知ったのはずっとあとになってからだったけれど。今もあれを優しいなんて言っていいのか、自分には判別がつかないけれど。
「ネヨ?」
じぶんは繰り返した。
「なまえ?」
 商品を買って、一番最初にすることが何なのかじぶんには分からなくて、でも指示をするか名前をつけるかかな、と思ったので、そして指示には聞こえなかったのでそう返した。その人はまた笑ってから、それで良いよ、と言った。頭は撫で続けられていた。

 じぶんは所謂奴隷という立場だったから、そのひとの名前も知らなかったけれど、そのひとはとても自由なひとだった。主人認識用の首輪はないとじぶんが脱走したことになってしまうので付けておかなければならなかったけれど、そのひとはデザインが気に入っていないのか、マフラーとかそういうもので隠すことを許してくれた。許してくれた、というかどうしたい? と聞いてきた。じぶんのことはじぶんで決めないといけないと、そのときに初めて知った。買われたあとには死んでしまうんだろうなあ、特にじぶんみたいな種族はとても弱いから、と思っていたのに、どうやらそのひとはじぶんに特に何かする予定はないみたいだった。なら愛玩用、なのかとも思ったけれども夜に寝室に行っても追い返されたし、そのうちに続けていたら独り寝が寂しいのかと勘違いされて一緒に寝てもらえるようになったけれど、そういうことは一切なかった。知識も与えられたし、仕事に連れて行かれることも多かったからいろんなことを必死で覚えた。じぶんが何か新しいことを覚えるとそのひとは笑った。でも、ネヨ、と呼ぶことはあれ以来一度もなかった。多分名前ではなかったことは分かっていたけれども、じぶんは名前を聞かれたらネヨ、と名乗ることにしていた。大抵はそのひとが誰かに聞かれて、答えろとばかりにこっちを見てくるからそうなるしかなかったのだけれど。
 じぶんの視力が悪いことに気が付くと、そのひとは眼鏡を買い与えてくれたし、上等な服も上着も買い与えてくれた。リボンを与えたのはもしかしたら趣味だったのかもしれないけれど、そのひとは特にじぶんに何かを言うことはしなかったから、それならそれでも良いと思った。
 多分そのひとにはじぶんは要らなくて、でも何故かそのひとはじぶんを買って、そのひとの助手まがいのことをやっている。いろんなことを知ることは楽しかった、マフラーで首元は隠れるから奴隷というのも一見しては分からないし、種族は一目瞭然でも首輪が見えないだけでひとの態度はまるっと違うのだった。時々何かそのひともじぶんも言われたことはあったけれども、そんな些細なことよりももっといろいろ言われる部分があったので今更気にしていられなかった。奴隷売買なんてことよりもそのひとはずっと危険なことをしていて、だからじぶんはいつか盾になるのかな、なんて思っていた。だからそれを言ったのにおなかを抱えて笑われて、そういうので買ったんじゃないよ、と言われた。でも本当の理由は教えてくれなかった。薄々思っていたど、そのひとがじぶんを買った理由なんてなかったんだろう。目に入ったからとか、あってもそういう理由だったんだろう。あの迷いのない足取りはあの場所がどういうものか知っているからで、別に何か買いたかったわけじゃあないんだろうな、と。でもじぶんが今此処にいるのは変えようがない事実なので、それでいいか、と思った。このひとは暴力をふるわないし、知識も服も寝床もお金も仕事もくれるし、愛玩用にはしないし、やっぱり疑問は残るけれど、じぶんは良い方なのだと思ったし。
 これを。
 楽しいっていうのかな。
 そんなことを思っていた矢先。

 そのひとが、刺された。

 刺した相手は仕事上縁のあった相手だった。あんまりに人の多い場所での犯行だったので、相手はすぐに捕まった。捕まったけれど、どうにも組織ぐるみというか、そのひとを殺したいひとはたくさんいて、ただちょうど成功してしまったのがこの相手、ということらしかった。わあわあと大の大人が喚いているのを聞きながら、じぶんはそのひとを抱きとめた。息がある、と思ったけれども辺りは一面血の海で、ああ、これはだめだ、と判断出来た。そしてその判断の通り、あっけないことに刺されたそのひとはさっさと死んでしまった。病院に行くまでもなくじぶんの腕の中でそのひとは勝手に死んでしまった。
 そこで初めて、もうじぶんは一人で生きていけることを知った。一人で生きていけるようにされていたことを知った。じぶんは何処へでもいけた、もうずっとじぶんは自由だった。じぶんを買ったそのひとと同じように、自由だった。主人認識用の首輪は契約主が死ぬと効力が切れる。じぶんは契約されたことによって奴隷を管理する組織のリストからは外れているので、もう何にも縛られていなかった。今までも本当は縛られていなかった。それをそのひとが死んでしまって初めて知った。どうしよう、と思う傍ら、本当は何がしたいかなんてとっくに決まっていることを知っていた。自由なひとがじぶんに込めた、最初の願いをじぶんはどうしても叶えたいし、その自由なひとを殺したひとたちが、殺したいと願っていたひとたちが、生きているうちはそれは叶わないとも思うので、じぶんは復讐の旅に出ようとそう決めたのだった。
―――じょうずにしねよ。
 自由なそのひとがじぶんに一番最初に込めた願い。
 ぼそぼそと、はっきりと喋らないそのひとの願いを、本当はじぶんは優しいと思いたくて、だからあの日、頭を撫でてもらったことを忘れないようにするのだ。



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20190305