鉄格子の向こうの悪魔
世界から棄てられたもの、それを拾うのが彼らの仕事。 奪われたは何? それ以外は無駄過ぎるほど持っているのに。 「四十五番」 「はーい」 金髪の少年がやる気なく手を挙げた。 「今日から私が君の担当になる」 「そうですかー」 少年はちらりと私を見てから、すぐにルービックキューブに戻った。 どうやら彼の中で私はルービックキューブ以下らしい。 返事をしただけましだと思い、私はそこに座り込んだ。 今日から私はこの少年の世話係となる、それだけのことだ。それ以上でもそれ以下でもない。 ここの生活は外の世界とそう変わらない。 一人ひとりに個室が与えられ、大雑把に決められた時間を守って過ごす。 起床、朝食、自由時間、昼食、自由時間、夕食、自由時間、入浴、就寝。 基本的に自由時間は談話室で過ごす。行動の一切を子供たちは看守と共にするが、 彼らの間に会話が起こることは稀である。 看守は監視するため、というよりは、守るためにいるように私は感じていた。 子供に何もなければ、看守はただ空気のような存在だった。 翌日もそのまた翌日も、私が決められた通りに少年の傍に居座っているにも関わらず、 少年の視線がルービックキューブから、私に移ることはなかった。 これからも少年の興味は私なんかには向かないだろうと思っていた。 ここはそういうところだ。 だが、偶然という奴は起こるもので―――私がこの施設の看守として、 四十五番の少年に会ってから早一週間。いつものように私は少年の隣に座っていた。 少年の視線は今日もルービックキューブで、私の存在など気にも留めない。 私は昨日読んだ本の内容を思い出して一文一文なぞっていた。 暫くして、少年が小さくあっと声を上げた。 眼球だけ動かしてそちらを見れば、少年の手の中でルービックキューブが無残な残骸へとなっている。 「…壊れるなんて、思わなかったのに」 小さく呟いたその頭を無性に叩きたくなった。 「看守さん、看守さん」 壊れてしまったルービックキューブから目を離し、少年は私に声を掛けてきた。 私は少なからず驚いたが静かな声で返す。 「…何だ」 「名前。なんてーの?」 ひどく、あどけない表情だと思った。 「名前…名前か」 「あるでしょ? 看守さん。俺たちと違って、ちゃんと名前、持ってるでしょ?」 一瞬、言葉に詰まった。名前。その言葉が、脳裏を火花を上げて走り去る。 「―――はじめ」 そっと、その名を口にした。 少年はへぇ、と呟くと、 「はじめちゃん、て呼んで良い?」 「…好きにしろ」 「やったぁ」 笑った。そういう表情も出来るのか。私は少し、不思議だった。 「ルービックキューブ」 「え?」 私は言葉を続ける。 「その壊れたやつ、寄こせ」 渡された破片を確かめる。 欠けたりした訳ではなく、ただ外れただけのようだ。それを組み立てて、 「ほら」 返せば、少年からは尊敬とでも言うのか、光の宿った視線が送られてくる。 「はじめちゃん、すげぇ…器用なの? こういうの得意なの?」 「こういうのしか、特技がないだけだ」 無愛想に返しても、 「ありがとう、はじめちゃん」 笑顔が返って来た。その表情に私は既視感を覚える。しかし、それはすぐに消えた。 看守に笑顔を向ける四十五番が、つくづく不思議だと思った。 その日から私の看守生活の中に、四十五番との会話、という今までになかったものが組み込まれた。 会話の内容は食事のことだったり、本のことだったり様々だったが、 私自身について聞いてきたのは最初の名前だけだった。 四十五番について私が知っていることは少ない。 与えられた番号が四十五であることと、肩ほどの金髪に穏やかな茶の目、典型的な大人しい子供、 と言った容貌をしていること、思った以上にお喋りなこと、そして、妙に私に懐いてしまったということ。 その日も他愛のない会話をしながら与えられた時間を過ごしていた。 ここは外部から遮断された施設。生きる以外にやることなどない。 四十五番から強請られて本の内容を諳んじている最中、ざわり、と入口の方が騒がしくなった。 「被害者の方の面会は禁止されています!!」 「うるさいッ! 俺は、俺の息子は、あいつに殺されたんだ!!」 入口に居た看守の制止の腕はいとも簡単に振り払われて、大柄な男が施設内に侵入してくる。 またか、と私は思った。時々居るのだ、こういう被害者が。 殺された者が戻らない悲しさから、その行き場のない思いをこうして昇華しようとする奴らが。 いつもと一つ違ったのは、 「…げ」 その大男が真っ直ぐ、こちらに向かって来たことだった。 「木崎快、だな」 大男は四十五番の前に立つと言った。 「その名前は、もう取り上げられているはずですが?」 少年はルービックキューブから目を離さずに答える。 どうやらこの大男も、当初の私と同じく少年の中ではルービックキューブ以下らしい。 「息子を、返せ」 「死んだものは生き返りませんよ。分かっているはずでしょう?」 大男の顔が怒りに歪んだ。あ、殴られる。 そう思った私は、気付いたら少年と大男の間に入ってその拳を腹で受け止めていた。 両方の顔は見えなかったけれど、きっと驚いた顔をしていたんだと思う。気配がそうだった。 「お、俺は…ッこいつを殴る気なんて、これっぽっちも…」 大男が動揺している間に、少年が私を抱きかかえた。 「はじめちゃん」 名前を呼ばれる。返事を返してやりたいが、如何せん腹が痛すぎる。 このまま意識が途切れそうだ…いや、確実に途切れる。 「四十五番、何があったか手短に説明をお願い出来るかね?」 施設長の声だ、と思った。 「俺が殴られそうになって、はじめちゃんが庇って、それで…」 「分かった」 担架を、という声が聞こえる。 施設付きの看護師だろうか、手早く担架を運んできて、私はそれに乗せられた。 「四十五番は部屋に戻っていなさい」 「施設長…!」 少年が絶望的な声を上げる。 「大丈夫だ、意識は失うかもしれんが、大したことはない。 明日の朝までには戻るだろう。その間、君には代わりの者を付けておく、良いね?」 「…分かり、ました」 ふつり、と意識が飛んだ。 私は白い空間に立っていた。あの程度で死ぬ訳がないから、ここは夢なんだろうと思う。 早く目覚めて、四十五番と会わなくてはいけない気がしていた。 意識が途切れる前に聞いた声が、私を非道く揺さぶっている。 戻らなければ、と辺りを見回している私の耳に泣き声が届いた。 不審に思いつつ、私はその声のする方へ歩いていく。この声を私は知っている。 声が近付くにつれてその声の主が見えてきた。小さな背中。泣いている少年。 「どうして泣いている?」 声を掛けた。少年が振り返る。そこで、夢は終わった。 風が冷たい、と思って私は目を開けた。 カーテンがはためいている。何かを祈るように外を見つめていたのは、 「施設長…?」 「目が覚めたかな」 私の声に窓際の人物が振り返る。やはり施設長だった。 「何が起きたか覚えているかね?」 「はい」 大男に殴られた私は気を失ったはずだ。おそらく、ここは施設付属の病棟なのだろう。 「どうして庇ったのか、聞いても?」 「…分かりません」 私は正直に答えた。 「無意識、かね?」 「はい。…殴られるって分かった瞬間、身体が勝手に」 あれは今思っても不思議な感覚だった。そうだ、少年に笑顔を返された時のような感じ。 「そうか。 私が君を引き取ったのも、君があの子の担当になったのも、それほど悪いことではなかったんだね」 「どういう、ことですか? そりゃあ、私を養子にしてくれた貴方には感謝してますけど」 「そういうことじゃないんだよ」 施設長は笑った。何て言うんだろう、仏だとか、そう評されそうな笑顔だった。 穏やか? いや、もっと的確な言葉があった気がする。 「少しずつ分かってくれれば良いんだ。焦る必要はない」 「…はい」 「今日はしっかり休んで、明日にはあの子のところに戻ってあげなさい」 「はい」 もう一度目を閉じる。眠りたい気分ではなかったが、施設長の笑顔を見ていられなかった。 カーテンの閉まる音、施設長が個室から出ていく。 あの夢は何だったのだろう。私は一人考え込んだ。夢は夢だ、現実ではない。 けれど、あの夢は気持ち悪い以外の何物でもなかった。 「私は、涙など忘れたのに」 泣いていた少年は、間違いなく、私。 翌朝、私は簡単な検査を終え、代わりに入っていた者と交代した。四十五番は俯いている。 手にはルービックキューブ、最初と同じ。 一度も目線を上げない四十五番に、 私はもう飽きられてしまったのかとも思ったが、すぐに違うことに気付いた。 言葉を探すように震える唇。 ルービックキューブを弄る指は、その色を揃えようという気さえ感じさせない。 「はじめちゃん」 「何だ」 少年はルービックキューブを握りしめて、 「何で俺なんか、庇ったの」 私は答えに詰まった。私の中には答えなどなかった。 強いて言うなら、施設長に言ったあの、分かりません、が真実だ。 しかし、少年にこんな曖昧なことを言っても良いのだろうか。 「はじめちゃん、答えてよ…どんな答えでも良いよ、俺、怖くて仕方ないんだよ」 何が怖いのか全く見当も付かなかったが、少年が震えているのは分かった。 「…分からないんだ」 「え…?」 少年が顔を上げる。 「分からないんだよ。ただ、殴られるって分かった瞬間に、身体が勝手に飛びこんでいった。 何でそんなことをしたのかも分からない」 少年はしばらくぽかん、としていたが、 「そっか」 何か納得したように呟くと、 「ありがとう、はじめちゃん」 また笑顔をくれた。そこで私はやっと気付く。この表情は、親友がしていたものに良く似ている。 だからと言って、どうだということもないけれど。 その朝、私は小さな嫌悪感を胸に業務を開始した。 経験と予想の導き出す近いうちに起こるだろうことは、私にとってあまり愉快ではなかった。 いや、これを愉快と感じないのは私だけではないはずだ。 残念ながら、それを呼び起こした原因とも言えるものは、一般とは一致しないのだろうけれど。 それでもいつも通りに昨夜読んだ本の内容をなぞり、少年に不審な行動がないか見張り続ける。 「…一人、足りない」 少年がぼそり、と呟くのを私は聞いた。 「はじめちゃん、五十八番がいないよ」 「…調子が悪いから部屋で静養している、と聞いたが」 私は朝の会議で言われたことをそのまま述べる。 嘘ではない。ふぅん、と少年は納得いかなそうな表情で頷いた。 「早く良くなるといいね」 「…あぁ、そうだな」 にこにこと笑うのを見て一瞬眩暈を感じる。 そして、頭の中にある未来が変われば良いのに、と気まぐれにも思った。 それから一度も少年との会話に五十八番のことは出なく、 五十八番もまた、部屋から出てくることはなかった。 「この施設に居る人ってさ、俺と同じくらいの人が多いよね」 一瞬詰まってから、ああ、と私は答えた。 「近年、少年犯罪は増加傾向にあるからな」 「うん…それは分かってる。けど、俺、分からないことがあるんだ」 ルービックキューブを捨てて手をぎゅっと掴まれる。その熱さに、身体がびくりと震えた。 「退去、ってどういうことなの?」 気付いていたのか、と思う。 「俺は最初、この施設に入る時に、成人するまではここが塒だって聞かされた。 それって、成人するまでは出られないってことだろ? なのに…」 この施設に入るような者は、自分さえ良ければ、という感覚が当たり前だ。 周りのことなど微塵も気に掛けない。 そう、最初、少年が私に目も向けずにルービックキューブに興じていたように。 この少年もずっとそうだったのだと思っていた。 が、しかし、どうやらその推測は間違っていたらしい。 「いなくなって行くんだ。周りの大人に聞いても、退去だとしか言わない。 だけどそれは可笑しいだろ? 俺は最初に嘘を教えられたの?」 「…嘘ではない」 そっと言った。五十八番が部屋から出てこなくなって一週間余り。 そして、ナンバープレートが外されたのが今日。良く見ている、と思う。 「嘘は一つもない。この施設では、そういうことを総じて退去と言うだけで…」 「そういう、こと?」 握られたままの手に汗が滲んでいるのが分かる。少し暑苦しい。 私は一瞬詰まった。詰まってから、 「忘れろ」 「え?」 「良いから忘れろ。もう金輪際、その話題は出すな、そして触れるな! 考えるのも、気にするのも止めろ…」 そのやわらかい金髪を、くしゃりと撫でた。 「はじめちゃん…」 少年の声は限りなく震えていたが、床を睨むその端で、小さく、でもしっかりと頷いたのは見えた。 その、夜。 「…施設長」 「君か」 白い大きな布でくるまれた物体を前に、施設長は複雑な顔をしていた。 「駄目だったようだ」 「入ってきた時から、そういう予測はあるんですか?」 「そうだな…もう施設長も長いことやらしてもらってるし、な」 乾いた笑い方だった。私はそっと布を捲った。五十八番の白い顔が見える。 「何故…でしょうね」 私は呟いた。吐き捨てるように。 「私は、他人が死のうと別に何も思いません。嘗てと同じです、そこは変わっていません。 けれど、自分が死ぬということを考えると、何故だか凄く、嫌悪感を感じるのです」 「そうか…悲しい、というのは、今も良く分からないかね?」 「…はい」 「まぁ、急いて拾い集めるものでもないだろう。 現に、君は少しずつ変わってきているよ、私の目から見れば、ね」 「そうですか…?」 変わってきている、それをしているのは彼が言った人物とは違うけれど。 施設長の言葉を信じようと思った。誰よりも私が変わることを望んでいたであろう、あいつの為に。 少年が外に出たいと言ったのは、どんよりと曇った日のことだった。 今日は外部からの施設訪問者が来ているらしいが、 別に子供たちを外に出さないようにも言われていないし良いだろう。 私は少年を連れて受付に申請し、そのまま外へ出た。 外、とは言っても中庭のようなものだ。少年たちは二十歳までは施設から出られないのだから。 「曇ってるねぇ」 腕を大きく広げてくるくると回りながら、少年は言った。 「その割には楽しそうだな」 「俺、曇りすきだもん」 「そうなのか」 俺天気の中では一番曇りが好きだなぁ―――耳に蘇る。 この少年は時折親友を思い出させる行動をする。似ているのか、と問われればそうではないと思う。 「今日ってお客さんが来てるんだっけ?」 「ああ、らしいな。だが申請の時何も言われなかったから、別に外に出ていても良いんだろう」 「はじめちゃん真面目ー。お客さんみたいな人が歩いて来るから思い出しただけだよ。 外に出るのが駄目なのかな、なんてそこまで考えれなかった」 少年の指差した方向に視線を移す、途端に何かが走った。…ああ、これは動揺だ。 「…えざ、き?」 少年の向こうに男を見た。私が忘れもしない、その男。 「久しぶりだな。今ははじめ≠セったか」 ひどく、浅く笑った。その目には紛れもない復讐の色が滲んでいた。 「…はじめちゃん、知り合い?」 少年がぎゅ、とワイシャツを握って来る。私たちの間のただならぬ空気を読み取ったらしい。 この施設にそぐわぬ、そういった意味で敏い子供だと思った。 「…ああ」 嘘を吐く意味もないと思って頷いてやる。江崎はにやにやと笑みを浮かべたままだった。 「…そ、う」 どうして江崎がいるのか、そんなことは聞くまでもなかった。目を見れば明らかだった。 江崎にはその正当な権利があると思っていたし、それを避ける意味もない。 江崎が何を思おうと私は私の務めを果たすだけなのだ。 この場合、この少年の面倒を最後まで見ること、をだ。 くい、と少年が服の裾を引く。 「はじめちゃん、部屋、帰りたい」 「分かった。…そういうことだから、じゃあ」 「ああ」 また来るのだろう、それは予想よりも確かに私の中にあった。 強張った表情のままの少年をそのまま部屋まで送ると、少年は部屋に閉じこもってしまった。 少年が部屋へ入った以上、看守業務は一旦終わりだ。 少年が部屋からまた出て来るようなことがあれば私の仕事だが、 部屋に入った子供たちの監視はカメラの前の職員の仕事だ。 私は談話室を出て、施設内に備え付けられた自室へ向かった。 誰もいないその小さな部屋に、ぱたり、と扉の閉まる音が反響して聞こえた。 「…昭史」 その名を呼ぶことすら久々だった。けれど、忘れていた訳ではない。幻影が私の前を通り過ぎる。 あの夏からずっと、私の傍に居る幻影。 にこにこと笑う、何処かあの少年と似通った箇所のある気がする、私の親友。 「あきふみ」 私の呼び声に応えるかのように、その幻影はやわらかく笑った。 定例会議を終えて、私は部屋へと向かっていた。 配られた資料を見返しながら歩いていたが、ふと進行方向に人影を感じて顔を上げる。 「…江崎」 その目をぎらぎらとさせて、薄暗い廊下の壁に凭れかかっているのは、先日再会した男。 「お前は全く不愉快な男だな」 江崎は吐き棄てた。 「生きてどうなる? お前が殺してきた者たちに、どんな顔を向けるつもりだ?」 耳元、それはまるで悪魔の囁き。 「お前の飼っている餓鬼、あいつにも、同じ道を示すつもりか?」 「私は、仕事をするだけだ」 私は呟いた。 「四十五番がどうするかは、本人の決めることだろう」 だけどどこかで、あの少年が自分の目の前から消えてしまうことを心底嫌がっていた。 翌朝、少年の様子は少し可笑しかった。私はもう、少年がどうして可笑しいのか分かっている。 これは、何かを言いたいけれど言葉が選びきれていない時だ。 「はじめちゃん」 やっと口を開いた少年が紡いだ言葉は、とても硬かった。 「どうして…黙ってたの?」 自分のことを話されたのかと思った。 自分では隠すつもりはないが、施設長と出来るだけ言わない方向で、と決めてある。 これは施設長に謝りに行かないといけないな、 その前に少年をどうなだめよう、そんなことを考えていると少年は次の言葉を発した。 「退去が…死ぬこと、って」 甘かった、と思った。江崎から見れば少年は今私に一番近い人間なのだろう。 世間一般からすれば、監視している子供が死んでしまうことは看守の責任に直結する。 ここでは違うが、 ここの仕組みを細部までは知らない江崎にしたら、少年の死が私に打撃を与える最高の方法だ。 「…江崎から聞いたのか」 こくり、と頷く。 「どうして黙ってたの?」 「黙っていることが、ここでの暗黙の了解だからだ」 きっと他の子供が死んだことを知れば、 しかもそれが自殺だなんて知ったら、子供の精神は揺れてしまう。 「…何で…ッ」 顔を上げた少年の目に光るものを見付けて私はぎょっとする。涙だ。でも何故今? 少年が言葉に詰まる。言いたいことの整理が出来ていないのだろうか、などとぼんやり考えていた。 そのまま少年は部屋に戻ってしまい、その後出てくることはなかった。 その夜、私は外回りの者に交代を頼んだ。 一日だけ、どうせ明日も江崎は来る。私の絶望を期待して。 「死んだんですか、八番」 看守が驚いたような顔をした。 「何故、ここに…」 「八番が部屋から出て来なくなって、それで可笑しいなとは思っていましたが。 今日部屋の前を通ったらナンバープレートが外されいて、聞いてみたら退去、だなんて言うし」 私は淡々と話していく。 「最初に二十歳まではここが塒だと言われました。 だから、退去なんてものは存在しないと思ったんです。 でも、八番は現に居なくなっている。考えられることはただ一つ」 白い布に包まれたその身体を指差す。 「死んでしまった、ということ」 そこに居るのが八番だということは、顔を見なくても分かった。 自ら死んだのか、殺されたのか、そこまでは分からなかったけれど。 「殺したんですか」 いつもの無表情で問う。 「私もいつか、殺されるんですか」 この施設に入れられてもう三年が経つ。 今まで何故生きて来れたのか謎だが、 危険分子は排除する、という考え方がない訳ではないはずだ。 「違う」 看守は首を振った。 「じゃあ、自分で、ですか」 病気、という選択肢はなかった。看守は顔を歪めてゆっくりと頷く。 「―――吐き気がする」 言葉を絞り出した。 「俺は殺してきました。数は覚えていません。 でもきっと片手では…いえ、両の手でも足りないのかもしれませんね。だけど、」 眩暈がしそうだった。目の前が真っ赤に染まるあの瞬間とは違う、憎悪のような気持ち悪さ。 「自分で命を絶つなんて、気持ち悪い」 昔の夢を最近は良く見る。 それが少年の笑みが昭史のそれに似ているからなのか、 江崎が現れたからなのか、それとも両方なのかは分からない。 ただ、記憶をなぞるように延々と私は繰り返していた。 朝の会議にだけ出て、あとは他の看守に任せる。 「おはよう、いい朝だな」 そして私は、得体の知れない笑みを浮かべる江崎の元へと向かった。 「江崎、四十五番に何を吹きこんだ」 「吹きこんだなんて人聞きの悪い。俺は真実を言ったまでだ」 江崎が笑う。 「退去について黙っているということは、施設内では暗黙の了解だろう…」 「俺は施設内の人間じゃないんでね」 ひらひらと振られる手。 暗黙の了解であるだけで、子供に伝えたからと言って何の罪になる訳でもない。 この施設に入るような子供たちだ、周りからしたらどうなろうが構わない生命なのだろう。 「それとも、あの餓鬼が死ぬのは嫌なのか?」 感じたのは連続した痛みだった。最初に脛、次に腹。 痛みにぐらついた肩を押され、壁に叩き付けられるようにして寄りかかる。 「あいつを殺したお前が、誰かが死ぬのを嫌がるのか?」 「私は…殺してない…ッ」 無実だとは思わないが、それだけは譲れない。 江崎はそんな言葉耳に入らないかのように、私の前に立った。 …暗い、瞳。まるで、あいつのような。 「俺はそれなりにお前が好きだったよ」 江崎の手が私の首に置かれた。 「あいつが殺されるまでは、な」 力が込められないままなのは、江崎の迷いの表れなのか、それとも。 私は何も言うことが出来なかった。何を言えば良いのか分からなかった。幻影が重なる。 そういえば、こうして真正面から顔を見るのは久しぶりかもしれない。 流石は一卵性双生児だ、あの頃よりももっと大人になってはいるけれど、面影が残っている。 昭史も成長したら、こうなっていたのだろうか。重なって、重なって、 『大丈夫―――』 ああ、やっぱり思い出せない。 「はじめちゃん!!」 疳高い、声がした。 江崎の力のない手が誰かによってむしり取られる。 「はじめちゃん、大丈夫!?」 私を包んだ暖かさは、 「…四十五番、か」 江崎曰く私が飼っている¥ュ年。 「はじめちゃん…大丈夫? 怪我してない? 苦しくない? こいつに何かされたの? …何か、言われた?」 矢継ぎ早に聞いてくる。 どうして此処にいるのか、そう疑問は浮かんだがこちらへとばたばた走ってくる足音に、 どうやら代わりの看守を振り切ったのだろうと思う。 そこで私はふと、自分を掴んでいる少年の手の温度に気付いた。 「…お前、熱い」 「え?」 ハテナを飛ばす少年の額に手を当てれば結構な熱さ。 「熱あるぞ」 ここまで気付かなかったのは自分の落ち度だろうか。 いや、代わりの者を付けているのだから、今がした走ってきた彼の責任? ああ、今はどうでも良い。 「江崎、この話はまた今度にしてくれ」 「お前が生きてる限り、何度だって話をしに行ってやるよ」 「ちょっと、はじめちゃん!?」 少年の手を引いて、 「お前は病棟だ」 病棟へと向かった。 結果はただの風邪。私はその結果を聞いた時、心の何処かで息を吐いていた。 カーテンを開ける。担当看護師が会釈をして出ていく。 「…大丈夫か」 閉じていた瞼がゆるゆると上がった。 「はじめちゃんこそ、大丈夫?」 熱に浮かされた瞳で、少年は私を見る。 「大丈夫だ、江崎は力を込めていなかったんだし」 「そういう意味じゃないよ」 力なく振られる首。 「力が入ってなくたって、はじめちゃんは首を締められてた。 多かれ少なかれ、あいつには殺意があったってことだろ。そんなもの、感じたら、」 「大丈夫だって」 ぽん、と頭を撫でてやる。 「慣れてるんだ、あいつの殺意には。あの甘ったるいものを殺意と呼ぶのなら、だけどな」 少年はまだ何か言いたそうに私を見つめて、 「はじめちゃんがそう言うなら良いよ、もう…」 布団に潜ってしまった。 外の喫煙所に行くと、やはり其処には江崎がいた。 「あの餓鬼は?」 「ただの風邪だそうだ」 ふうん、と頷く江崎は少年を心配しているようにも見えて、ああだから、と思う。江崎は甘い。 その甘さは人を殺すためには不必要―――否、あってはならないものとも言える。 だからこそ、江崎は私を殺しはしないのだ。もっと言うならば殺すことが出来ないのだ。 なんて、馬鹿なやつ。 そう思っていたら、先ほどと同じように私の首へと手が伸ばされる。同じように、力の入らない手。 …入れられない、手。江崎、お前は殺せない。 そう言葉にしたところで代わりに拳が飛んでくるだけだろう。 決して痛みを悦ぶような性癖を持ち合わせている訳ではない、黙ったまま江崎を見据える。 「はじめちゃん!!」 その声に何よりも先に出て来たのは、何故寝ていない、という苦々しい思いだった。 まるで茶番だな、と思った。同じようにその手がむしり取られて、江崎の前に少年が立ちはだかる。 「はじめちゃんに、何するの」 「こいつに何をしようと俺の勝手じゃあないのか?」 「勝手じゃないよ。はじめちゃんは俺の看守だもん。それに―――」 すうっとその瞳から光が消えていった。 「お前みたいな中途半端にそういうことされるのが、一番気に食わない」 抉られたように、江崎の動きが止まった。図星。 滑稽なほどに分かりやすいその表情に満足したのか、少年は私の方へと向き直る。 はじめちゃん、とその声はこの上なく甘い音をしていた。 こんな声も出せたのか、と少しばかり感心する。 「俺が殺してあげる」 縋り付いて来た塊の熱には未だ慣れない。 「はじめちゃんが俺のこと、それで嫌っても良い。俺、あいつ殺したい」 「よんじゅ、」 「はじめちゃんを苦しめるあいつ、俺嫌い。殺したい!!」 これが、四十五番の底か、と思った。 私と同じ人間だと、それにしてはいやに底の見えない少年だと、そう思っていたからか、 いっそのことこういう部分が見えたことは安心にも似た感情を生んだ。 殺したい。 胸の奥がざわりと喚く。それを押さえつけるように静かに息を吐くと、私は首を振った。 「だめだ、四十五番」 「…なんで…?」 江崎に向けられた四十五番の視線を、私は一度見ている。 招かれざる訪問者が来た時もこんな目をしていた。 「なんで、か…」 それには答えられない。ぎりぎりと喉を奥を灼くものを感じていた。昭史、と口に出さずに呼ぶ。 少年は押し黙った私をじっと見つめて、そっか、とその手を離した。 「はじめちゃんの、ばか」 嘘でも良かったのに、正直者。そう捨て台詞を吐いて歩き始める。病室に戻るのだろう。 その後を影のようについていきながら、何と答えれば良かったんだ、と心の隅で毒づく。 私も未だ延々とその答えを探しているというのに。 一度だけ、後ろを振り返った。江崎はまだ、虚を突かれたような表情のままだった。 私が振り返ったことに気付いて、なんとか私を睨み付けてくる。私は小さく、首を振った。 殺したい。そう叫んだ四十五番の声が蘇る。 少年に対してそれをして欲しくないと思っているのか、 それとも彼が昭史に似ているからなのか、私には良く分からなかった。 昭史が死んだ時、私がそこに居たのは本当だ。昭史は知っていたのに、私に全てを託した。 「だめだよ、昭史」 最期の言葉が断片的にだが、思い出されては巡る。 「あいつには、どうしようもできない」 夏樹、と呼ぶ声はひどく真っ直ぐだった。 私の変化に最初に気付いたのは、やっぱり昭史だった。 作り笑いも嘘も、全部最初から見抜かれていたんだ。 「―――あき、ふみ」 初めて、紅く染まった手が怖いと思った。これは親友の血なんだと理解するのにも時間がかかる。 引き裂かれているのが親友の腸であるとか、 そこら一帯が真っ赤になっていることとか、私にとってはただの景色だった。 「俺、は、」 「大丈夫」 瞼が落ちてしまう。何度も見てきたから分かる。昭史はもう死んでしまう。 「孝史が、きっと――――――だから、大丈夫だよ」 最期に昭史は私に希望を託した。 そう、世間一般で言う希望であって、私にとっては意味が良く分からなかったけれど。 昭史は言った、きっと大丈夫だと。 親友の言葉を信じてもう十年以上が経つけれど、それは実現していない。 夏だった。暑い日差しの中で、私は昭史が冷たくなっていくのをずっと抱いていた。 逃げ帰ったあいつが怯えながら警察に連絡して、 私たちが発見された時には、もう一日以上が経過していた。私は昭史を離そうとしなかったらしい。 知らない合間に手続きは全部終わって、私には昭史の居ない新しい居場所が与えられていた。 「昭史」 応える声はない。当たり前だ、昭史は死んでしまったのだから。 昭史は非常に感情豊かな人間だった。傍にいようと決めたのも、それが切欠。 知らないものを、欠落した部分を、昭史を観察し続けることで埋められると思ったから。 けれど昭史はいつの間にかただの観察対象から繰り上がり、 「僕たちは、親友だよ」 そう言われた日から私は昭史の親友となり、昭史も私の親友となった。 初めては虫だったと思う。その次は猫、そして犬。 その対象が人間に移るまでに、そう時間は掛からなかった。 私は自分自身を足りないと自覚していた、 それを満たすのは同じ人間であると、それも分かっていた。 だからこそ、私はあの赤の中に立った。 最初は昭史もそうしてしまう予定だった。 けれども、親友となってから、昭史に手を伸ばす気にはなれなかった。 だから昭史の分も、なんて思っていたら昭史には全部バレていて、そうして。 あの日が、来た。 看守の朝は早い。まだ日も昇らない時間、廊下に足音が響く。 「お前はどうして死なない?」 暗がりから江崎が現れた。 「あいつは少し追い詰めただけで自ら死んでいったのに」 吐き気のする言葉と共に放たれたのは、私が知らなかった事実。 「…死んだのか」 「ああ。 お前さえいなければ昭史は死ななかった、お前なんかが生きようとしたために、 昭史は死んだんだ、って繰り返したら、遺書も残さず死んでいったよ」 罪悪感があったのだろう、と私は思う。 どれだけ暗い瞳をしていようと、正当防衛からの過失致死だろうと、 あいつが昭史を殺したのは紛れも無い事実なのだから。 あの日、何処から聞きつけたのだろう、外には江崎がいた。車に併走するように走り出す。 「お前が昭史を殺したのか!?」 辛うじて聞き取れた声に私は首を振る。 昭史が死んだのは私の所為、けれど、私が殺したのではない。 「お前が昭史を殺したのか?」 今、同じ質問をされている。私は静かに首を振った。 昭史が死んだのは私の所為、けれど、私が殺したのではない。爪先が腹に入った。 思わず蹲ると、肩を蹴り飛ばされる。 人形か何かのように私はいとも簡単に吹き飛ばされ、仰向けに転がった。 「お前は…」 江崎の声がする。 「どうして、生きているんだ…ッ」 噛みつくような瞳が、馬乗りになった江崎から向けられる。 でも、どうして江崎は私に早く死ねば良い、とは言わないのだろう。 この間と同じように首に手を掛けられながら、ぼんやりと考えていた。 死ぬのは嫌なのに、江崎の手を振り払えない。 「昭史は…お前が好きだった、俺の比にならないくらいの信頼をお前に置いていた!! なのに、お前はそれを裏切ったんだ!!」 二発、三発。顔を殴られる。口の中に広がる鉄の味がとてつもなく不快だ。 「何で、昭史は、お前なんかを…」 視線が絡んだ。 その瞬間、火花が散ったように私の記憶が繋がる。唇の動き、空気の震え、耳に届いたその言葉。 「…一つだけ、思い出したことがあるんだ」 私は江崎の目を真っ直ぐ見る。 「昭史が、最期に言ったのは、」 全身が震えそうだった。 「孝史が、きっと君を助けてくれるから、だから、大丈夫だよ=v はは、と江崎が笑った。 「俺が、お前を…たすけ、る?」 ぼろ、とその瞳から落ちたのは涙。 穏やかに笑っていた昭史とは全く正反対の表情をしていると言うのに、 江崎の目は昭史と一緒だった。同じ光が宿っていた。 「俺が? 昭史を殺したお前を何で助けなきゃいけないんだ? どうして、何で…」 首に添えられている手はもう殺意を含んではいなかった。 首筋を伝っていく涙は表現し辛い温度で、ひどく、胸が痛い。 「これが、悲しい?」 私は唐突に聞いた。 「…そうだよ」 江崎が応える。 「胸が抉られるような痛みが、悲しみなんだ」 足りなかったピースを拾い上げたような感覚だった。 「たか、ふみ」 「何だよ、夏樹」 胸の痛みが増した。 「俺、もう、夏樹じゃ」 「良いんだよ」 そっと手が離される。孝史が私の上から退いた。 「幾ら新しい名前をもらっても、お前はお前だから」 悲しい、とはまた別の痛みだった。その名前を私はきっともう知っている。  孝史が煙草を取り出した。ライターの音とものが燃える匂い。 ふう、と吐き出された紫煙は私の顔に直撃した。咳き込む。からからと笑う孝史、わざと。 「俺はお前は絶対に許さない。手を下したのはあいつでも、切欠を作ったのはお前だ、向山夏樹」 ふと、真面目な声色になった孝史が私のワイシャツに手を掛けた。 鎖骨に煙草を押しつけられる。…熱い。 「だから、お前も絶対に忘れるな」 真剣なその言葉は熱さと共に私に刻まれた。 「…あぁ、忘れない」 昭史の書き上げたシナリオが幕を下ろす音がした。 これから昭史は幻影ではなく、思い出に息づくようになるのだろう。 ずっと傍にいたものが消えていく感覚は、 少しばかり元からあった欠落を広げていくような心地がした。 けれども、その名を知った私は、きっともう、同じことをしはしない。 いつものように会議に出て、それから四十五番の元へ行く。 両頬に湿布を貼った私の顔を見て、それから真っ向から目を見据え、 何やら感じ取ったのか、はじめちゃん、と四十五番が私を呼んだ。 「ね、俺頑張るからさ」 その目はひどく真っ直ぐで、穢れがなくて。 「俺がここを出る時は、名前を頂戴。で、出来れば、」 「俺と一緒に暮らしてください」 施設を出た所で急に立ち止まって、大荷物を持った少年、いや、青年・修悟は言った。 私もまた同じように、施設内の自室の荷物を纏めてそこに立っている。 「お前、施設長に何か言っただろ…」 「いやぁ、まさか四年も前の約束をまだ覚えててくれるとは、正直思ってなかったんだけどさ」 四年って結構長いでしょ、と修悟は笑う。 施設内での笑顔より開放的と言うのだろうか、しまりのない顔。 「でもはじめちゃん、本当にここ辞めて大丈夫? 家とかある? 職は? あと、はじめちゃんの後釜とか」 はぁ、と私は息を吐いた。 「別に辞める訳じゃなくて看守から事務に異動するだけだ。 家は施設長の家、かなり大きいから期待してろ。看守業務には孝史が入ることになっている」 孝史が四年前、自分は施設内の人間ではない、と言っていたのが思い出される。 彼の中でどんな変化が起こったのか知れないが、施設内の人間になってしまったな、と思った。 「…ちなみに、お前も事務職だぞ」 へぇ、と言った顔をしている修悟に私は告げる。 「えぇ!?」 「もう二十歳なんだ、働け」 私はそう言い放つと、荷物を持ち直して歩き出した。 「ちょ、はじめちゃん、待ってよ!!」 ごろごろというキャスターの音と、修悟の軽やかな足音が聞こえる。 「早くしろ、タクシーを待たせているんだ」 私が急かせば隣に並んだ。 タクシーの運転手が二人分の大荷物をトランクに入れている間に、修悟は寄ってきた。 「ねぇ、はじめちゃん、なんでしゅうご≠ネの?」 私は少し空を見上げて考えるようにしてから、 「私の名前と同じだ」 ぽつり、と呟いた。 「私は一番だったからはじめ=B お前は四十五番だったからしじゅうご=Aでじ≠抜いてみたら人間らしい名前になった」 「それだけ?」 私は今度は本当に考えながら、 「施設長は、 一体どういう気持ちで私に名前を付けたんだろう、って考えてたんだ。そしたら―――」 強い風が吹く。私はそれを、そっと修悟の耳元で囁く。 「積み終わりました。さ、向かいましょう」 タクシーの運転手がにこやかに私たちを車内へ促した。 「今度は何も失くさずに、生きていけるように」 鉄格子の向こうに蠢いている、悪魔たちに敗けないように。
20140517
20150309 まとめ