これは、罪であるのだろう。 誰が何と言おうと、私は、これを罪だと思い続ける。 その女に出会ったのは、冬の終わりのことだった。 周りは春の到来を心待ちにし、昨年のそれに思いを馳せながら、新しい出逢いを思う。 桃色の空気が舞っているように。 そんな中で、駅前の噴水の端に腰掛けるその女は、ひどく浮かない顔をしていた。 実際は無表情、というものだったのかもしれないが、 ちらりと視界の端を掠めたその女は、泣いているようにも見えた。 「…具合でも、悪いのですか?」 格別気になった訳でもないが、そっと聞いてみた。 「いいえ…具合の悪そうな顔をしていますか?」 女は不思議そうに聞き返してきた。 「具合の悪そう、というよりは、心浮かない、と言った顔でしょうか」 「そうでしたか。顔に出てしまっていたのですね」 乾いた笑い方をする女だった。 「お話をお伺いしてもよろしいですか?」 口を次いで言葉が出て行くような、そんな気分だった。 不思議な気分だ。 「お時間の方は大丈夫なんですか?」 「ええ」 仕事も休みの日だった。 「じゃあ、話のお相手をお願いします」 やっぱり、乾いた笑い方だった。 それから噴水の端では寒いからと、私たちは近くの呑み屋へと移動した。 個室があるから、人の目を気にせずに話せる、それだけのことだった。 女の名前は聞かなかった。 女も、私の名前を聞かなかった。 男のような女だと、良く言われた。 それは勝ち気であるとか、粗忽者であるとか、そう言うことではなくて、 良い意味でだったと思っている。 第一印象は気の弱い、病弱な子。 普通よりは白い肌の所為か、背が高い割には妙に肉付きが悪い所為なのかは分からなかった。 現在多い、キレるという行為もそうそうしなかった。 喧嘩は仲裁が得意。 人から何かされても、苦笑してかわすだけ。 いつしかそれは日常になって、八つ当たりの対象にされるのも稀ではなかった。 そんな時は影で泣いていた。 悔しい。 その思いがなかった訳ではないが、不思議と、また人に嫌われた、という念の方が強かった。 何よりも、人が悲しむのが、辛いと思っていた。 だからこそ、避難所として使用していた保健室で、いじめに悩む生徒の相談に乗ったり、 家族間の問題で悩む生徒にアドバイスをしたりしていた。 保健室登校、と詰られていただろうが、私としては何も気にならなかった。 何故なら、それは事実だったから。 保健室の方が教室より居心地が好い。 それは紛れもない真実だった。 其処で、彼に出会った。 彼もまた保健室に良く顔を出す生徒であった。 自然と顔を合わす時間が増える。 いつまでも他人でいれる訳もなかった。 地方の学校であったから、学年は違えど、私も彼も互いの顔を知っていた。 「と言っても、この辺りは私の記憶も怪しいんですが」 「何故です?」 「早く忘れよう、早く忘れようとずっと念じていたんです。 それが、叶ってしまったのでしょう」 そうして彼に話を合わせるようになった。 私にとって、知り合った誰であれ、嫌われるのは嫌だった。 言い方を換えれば、臆病者、とも言えよう。 彼が家族について文句を言えば、そんなのは酷い、と言い、 彼が恋愛相談を持ちかけてくれば、自分の持てる範囲のアドバイスをした。 そんな風にして、彼の信頼が傾いてくるのは時間の問題であった。 今となっては、本当に信頼されていたかも怪しいけれど。 しかし、私が思う彼の信頼を感じる度に、私の心は違う方へと向かっていった。 ―――私は、人にとってなくてはならない存在になっている。 何処から来た優越感だったのか。 私を支配するのに、そう時間は要らなかった。 私にとって、彼は子供のようなものだった。 もしくは、手のかかる部下。 世話焼きはそれなりに好きな方だと言われたことがある。 彼が何かと私を気に掛けてくれるのは、嬉しかったのだろう。 けれど、それは純粋な気持ちではなかった。 見返りを要求した、それに彼が知らず知らずのうちに応えていた、ただそれだけのこと。 彼が死にたい、と言えば、止めなかった。 止めはしなかったが、周りの人は悲しむのでは、という疑問を投げかけた。 正直に言えば鬱陶しかった。 彼に死ぬ気はない。 私はずっとそう思っていた。 私は、何度か自殺未遂をしていた。 その時に誰かに死にたいと溢したか? 否、しなかった。 私だけのことかもしれないというのに、私にとってはそれが全てであり、世界だった。 一番正しいのは、この世界で私だけだった。 そんなに死にたいと言うのなら、早く死ねば良いのに。 そうも思った。 けれど、そうも出来ないのが人間というものなのかもしれないと、そっと思っていた。 自分が、死ねなかったように。 しかし、その受け答えは彼にとっては、優しさ、という形で変換されたらしい。 だからこそ、あの秋の終わり。 彼は、私に好きだと言った。 私には好きな人が居た。 一生の中でも長く、絶対に忘れない恋愛になるだろう、という恋をしていた。 結局報われはしなかったが。 五分。 彼の為に時間を割いて文面を考えた。 小さい頃から好きだった漫画に、 好きな人の一番になれない辛さを知っているから、 一番になれなかった自分のことを思い、苦しむだろう、という言葉があったのを思い出した。 その通りだと思った。 けれど心の何処かで、私は踊っていた。 私は愛される資格のある人間なのだ! 誰かの一番になれることの出来る人間なのだ! 送られた愛よりも、愛を送られた、という事実に対する歓びだった。 そう、誰だって良かったのだ。 私には当時の心に決めた人が居て、 その人の気持ちは絶対に私の方を向かないと分かってしまっていて。 若かった私はその人を心の何処かで少しは憎む気持ちを持っていたのかもしれない。 私は、愛されない人間なのか、と。 その疑心が晴らされた瞬間だったのだ。 「私は、心の何処かに、 私を愛す人なんて居ない、という思いを持っていたのかもしれません」 「一番好きな人に、愛されなかったから、ですか?」 「そうですね」 「若かったのですね」 「そうですね」 メールで伝えられた告白には、メールで返した。 私には好きな人が居るから、その思いには答えられない。 そんな文面だったと思う。 その後も彼とは関わりを続けたが、 私はそれが次第に自分に重荷になって行っていることに気付いていた。 彼の言う死にたいが気を引きたいが為だけのものに思えた。 彼の自慢は彼がナルシストだという証明に思えた。 一日に大量にやりとりするメールにはうんざりしていた。 時には、私の家の前を通った、部屋の中が見えた、 今日の服は何色だった、等の言葉を贈られた。 年賀状が書きたいと、住所を聞かれた。 煩わしかったので断った。 そうしたら、自分の親は役所勤めなのだと言ってきた。 脅し、だった。 面倒になった。 休養が、欲しかった。 丁度正月の訪れようとしている時期、 彼には委員会の仕事や親戚の集まりなどで忙しいと嘘を吐き、 メールを送らないように伝えた。 正月くらいは、彼から解放されたかった。 まるで彼は呪縛のようだった。 メールの恐ろしさを知った。 しかし、嫌われるのだけは嫌だった。 理由は簡単だ、彼が私を悪者に仕立て上げるのが思い描かれたからだ。 私は悪者になるのは慣れていたはずだった、 その時に初めて、自分は悪者になりたくないのだと知った。 七日、だったはずだ。 彼からのメールが届いたのは。 それは返信を期待させるような文面で―――あまりに鬱陶しく、 その内容は覚えていないが―――少し時間をおき、 忙しいから返せないと言ったではないか、と返した。 更にその返信。 それが、私の在り方を決めてしまった、と言っても過言ではない。 ―――お前の返信なんて期待していない。 構ってくれる人なんて、ごまんといる。 かいつまんでこんな内容だった。 血管が切れる、というのは、こんな時なんだろうな、とぼんやり思った。 一度は好きだと言った相手にこんな物言いが出来るというなら、 やはりあの告白は紛い物だったのか。 私は嗤ったと思う。 私はあまりに一途で、どんな状況下であろうと、好きな人は一番であった。 今その人に会ったとしても、周りの男と一緒にすることは出来ない。 それが、一時期は好きだった相手に、突き放すようなことを。 私は寂しがりやの構ってちゃんだったのだと思う。 今もそれは変わらないような気がするが。 その日のうちに処理をした。 メールの受信拒否。 数日後、自分のブログ ―――あけおめメールを送ったという内容だ―――のコメントを確認していると、 忙しくて送れないって言った癖に、そう言った主旨のコメントがされていた。 彼だった。 私はそのコメントを削除した。 ついでに、IP拒否もした。 公の場でこうして人を貶めるようなことをする彼は、ひどく大人げない生物だと思った。 それからよくよく考えて、自分も大人げないのだと思った。 が、気付かなかったふりをした。 それからは地獄の日々だった。 パソコンのメールも知られていたので、そちらにもメールが届いた。 そちらは迷惑メール設定にして、見ないようにした。 いずれも、私を責める内容のものだった。 少しして友人の家に遊びに行った。 友人の妹が、彼から送って欲しいというメールが来ている、と言われた。 ちらりと見せてもらって、消して良いよ、と言った。 またも私を責める内容だった。 今なら許せる―――。 お前は何様なのだ、と言いたくなった。 許す許さないも、事の発端はお前ではないか! 彼にぶつけられない怒りは私の中でストレスとなっていった。 今まで絶対に手を出さなかったリストカットをやり始めた。 つまらなくて直ぐ止めた。 今までの自殺未遂の通り、安定剤を大量に飲んだ。 長く寝ただけだった。 それでも良かった。 寝てしまえば学校に行かなくて良いとも思った。 可笑しい話だった。 その年のクラスを、私は今までで一番楽しいクラスだったと絶賛しているのに。 友人の妹は更に彼とのやりとりを見せてくれた。 何か悪いことをしたのだろうか? そんな内容だった。 更に腸が煮えくりかえりそうになった。 彼から英語で書かれたメールが来ていたこともあった。 それにも触れられていた。 英検を持つ私なら読めるだろう、と精一杯に私を褒めていた。 しかし、それは逆に考えれば、 文を考えられる自分は優れていると、彼が言っているようにしか思えなかった。 私の持っている資格を知っているのもぞっとした。 人づてに聞いたのか、 それともメールの中で私が溢したのか―――まるで私を良く知っているような文面に、 私は気分が悪かった。 「私は、誰かに完全理解されることを望んでいる癖に、理解させたくないみたいなんです」 「それは矛盾しているようで、矛盾していませんね」 「完全じゃなくちゃいけないんです。中途半端は要らない。 包み込んで欲しかったのかもしれませんね」 「女性なら一度は望むことでしょう」 彼からのパソコンへのメールは絶えなかった。 毎日ではないが、一週間に二、三通。 迷惑メールをチェックする度に、彼のメールが見えて、怖くなった。 偶然開いた二週間ほど前のメールに、 このまま答えてもらえないなら、殺して欲しいと書かれていた。 パニックになって、次の日の放課後、保健室に駆け込んだ。 彼の指定した日時は過ぎていた。 彼の指定した場所に、私はその日、居なかった。 毎週の用事であり、学校でいつも居るであろう場所を指定してあった。 そこまで言ってくる彼に、吐き気のようなものを覚えた。 恐ろしいと言うよりは、おぞましかった。 それからは迷惑メールのチェックをしなくなった。 紛れ込んでしまったメールは無視することにした。 自分を守る手段だった。 「それでも、彼が私を嫌うのは避けたかったんですね」 「彼のことは、好きだったんですか?」 「いいえ?大嫌いでした。 死ぬならさっさと死ねば良いとまで思ったんですよ? …まぁ、人を巻き込まないで欲しいと言うのは、本音でしたが」 「死にたいなら、自殺すれば良いと?」 「そうですね、冷たいようですが。 自分で死ねないからと言って、 人に殺して欲しいと言うのは、反則だと、そう思ったんですね」 彼を避けるように過ごして、 元々息苦しかった学校生活を更に息苦しいまま終え、私は卒業した。 彼とはその後メールも会話もすることはなかった。 それから二年後くらいに、街ですれ違った、それだけ。 「今も、その彼を憎んでいますか?」 「いえ―――…私は元々、彼を憎んでいた訳ではないんです。 ただ、鬱陶しかっただけ。 私に、依存している。その感覚が拭えなくて、気持ち悪かったんです」 「言いますねぇ」 「こういう性格ですので」 やっぱり乾いた笑いだった。 「今は、とりあえず表向きは、 彼は弱く世界の分からない人間だったのだと、結論づけています。 私が救えなかった、そう思うことにしています。 自分を悪者にすることで、自分を救おうとしているんです」 「表向き、と言うことは、裏もあるんですか?」 「さぁ…それは分かりませんね。 本当は彼をどう思っているのか…案外、どうも思っていないのかもしれません」 女と私は呑み屋を出た。 そこまで呑んでいなかった。 いつもはふらつく足取りも、今日はしっかりとしている。 女の話が本当だったのかは分からない。 何処かからが作り話であるのかもしれないし、全てが嘘なのかもしれない。 ただ、これだけははっきりとしていた。 寒い風が鼻先を掠めていった。 息が白く染まる。 本当に、冬は終わり、春は来るのだろうか、ふと心配になった。 頬が紅潮する。 女の罪が、どういうものであったのか、私には良く分かっていた。