あたたかさが心地好いのだと、
それが狂おしい程に欲しいのだと、そう思ってしまったらもう駄目なのだ。
それ以上は、無理なのだ。

―――ごめんね。



摂氏七度



遺伝病。
流依の身体を、その家系を蝕んでいるのはきっと、そう言い表すのが一番科学的だ。
もっと的確に表すのならば、呪い、だけれど。

その存在を知ったのは惨劇のあとのことだった。
父親の弟である流介に引き取られて、一通りのことを教わった。
父親の指先が冷たかった訳、あんなことになってしまった訳。
もっとはやくに知っていたら、そんな彼の懺悔すら流してしまう程、呆然としたのを覚えている。

それはとても奇っ怪な病だった。
身体に起こる変化を上げるならば、
指先から温度徐々に消えていくのと、あとは若干犬歯が尖りを見せ始めることだろうか。
それは初期症状で、しかしその時にどうにかしてしまわなければいけないものだった。

温度が消える、と言ってもよくある冷え性、なんてものとは比べ物にならない。
ひんやりと、本当に氷と同じくらいまで冷たくなるのだ。
尤も、そうなってしまえば手遅れではあるのだが。
血が通わなくなる訳ではない、ただ、温度だけが消えていく。
それは栄養失調に陥った人間が、徐々に感覚を失っていく様に似ていた。
観測記録はないが、
おそらく進行が深まればその冷たさは中枢にまで及ぶのだろうと推測されているらしい。
そこまで至ればその個体に待っているのは死、のみだ。

しかし、そうは言ってもこの病に対する打開策がない訳ではないのだ。
ただ、それをすれば人間ではいられなくなる、というだけで。

―――人間の血を、吸えば、良いのだ。ただ、それだけ。



まだ幼かった頃の話。
ちとやが、そして美園流依自身がそんな病に冒された家系だなんて、知らなくて。
ただ父親の指先をあたためたいと思った。
大好きな父親がこのままだと死んでしまうのだと聞いたら、尚更。
いくら幼くとも、死がどういったものであるのか、なんとなくだが理解は出来ていた。

父親もまた流依を愛していたのだろう。
今となっては確かめるすべもないが。
だからこそ、その幼い願いを引き金に、
封じていたはずの本能は火を付けられて、悲劇を起こした。

分かっていたはずなのだ。
自分の生命を優先させるということがどんな惨劇を引き起こすのか。
それでも一度坂を転がり始めた石が止まらないように、
父親もまた、止まることは出来なかった。
一度歯を立ててしまったら、その香りを、その味を感じてしまったら。
恐怖に藻掻く愛していたはずのその人など、ただの獲物にしか見えないのだろう。
細い腕を押さえつけて、
母親の首から流れ出る血を啜る父親は、彼に寄生する病は、そういうものだった。

必死に生に縋り付くその姿は、美園流依の目にどう映ったのだろう。
すべてを見てたはずの流依は、あるいは見ていたからこそ、
声の一つすら上げることなくその場に立ち尽くしていた。

母親とてされるがままでいた訳ではない。
血塗れでもんどりうちながらその拘束を逃れると、逃げ込んだ先は台所。
きっと、一番先に目についたものがそれだっただけなのだ。
洗って干してあった包丁。
血の匂いを追って飛び込んで来た父親を迎え撃つように、その刃は彼の肉にめり込んだ。

残された現場は悲惨なものだった。
大人が二人もみ合ったのだ。
辺りは一面紅一色で。
父親も母親も、重なるように倒れこんだまま、二度と起き上がることはなかった。

美園流依の記憶は一度そこで途切れる。
次の瞬間、その中からその状況を見ていたのは別の存在だったと言っても過言ではないだろう。
がくがくと震えたままの脚に鞭を打って二つ分の肉塊に近付く。
生きているとは思わなかった。
だから、そのうちの一つがぐりん、とこちらを向いた時、
がらにもなくヒッと声を上げてしまったのだ。

息があったのは父親の方だった。
美園流依を見遣るその笑みはひどく艶やかで、
とてもじゃないがこれと同じ人間であるとは思えなかった。
愛しかったはずの我が子のことすら分からないかのように、その唇が紡いだのは確かな呪い。
「バケモノなんだよ、私も…お前もね―――流依」
バケモノ。
その表現に間違いはない。
人間として生きてきたにも関わらず、人間の血を吸わなくては生きていけない、なんて。
美園流依もまた、それを通してその言葉を聞いていた。

バケモノ。
他に形容のしようもないだろう。
いつか自分もそうなるかもしれない、父親のように愛する人間を手にかけて…。
渦巻いたのは恐怖。
怖いこわい、怖い。
バケモノにはなりたくない。

だから、その日から自分のことをバケモノだと思うことにした。
怯え続ける美園流依を抱き締めて、ただ毎日を生きてきた。
流介に引き取られ、彼に目一杯愛してもらおうと、その恐怖は融ける気配すら見せなかった。
美園流依は人間を愛することが怖くなっていた。
たとえそれが親愛に類するものであろうと。

このまま死んでしまうのも良いと思っていた。
半ば譲り受けてしまったような人生で、人間であれるリミットがあるのなら。
あのような惨劇を繰り返してしまうくらいなら。
人間のまま美園流依を死なせてやるのが幸せなんだと思っていた。

それでも物語は残酷な結末を提示する。
幸福と見せかけて、確実に不幸になる道筋を指し示す。

それほどに美園流依にとって久木海斗との出会いは分岐点だったのだ。





  




20130903